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こころの音36

この前、
創価学会(そうかがっかい)の小さな会合があって、
終わった後、
少し、雑談(ざつだん)をしました。

その時、
一人の婦人が、話してくれたんだけど、
その婦人が言うには、
創価学会員でない人たちと
いろいろ付(つ)き合っていると、
創価学会員でない人たちは、
表面的(ひょうめんてき)には幸せに
見えるそうなんです。

けれど、
深く付き合っていると、
内実(ないじつ)は、
どろどろの悩みを抱(かか)えていたり、
どろとろの苦しみを、抱えてたりすることが、
多いそうです・・。


一般的(いっぱんてき)に考えると、
創価学会員でない人の生き方というのは、
根本となる哲学(てつがく)、
生命に対する、確固たる信念(しんねん)がないので、
どうしても表面的な幸せを追(お)い求め、
結局、それは、


『幸せ芝居(しばい)』


になってしまうと思う。


ところが、
創価学会員は、違(ちが)う!


別に、創価学会の人が、
悩みや、苦しみを、
抱(かか)えていないということではないけれど、
創価学会の人は、
本当の幸せを、つかもうとしている!

自分の生命で感じる、
本当の充実(じゅうじつ)、
本当の生きがい!

生きている歓喜(かんき)!

その生命の最も根本的なところから、
あふれ出る幸せを、つかむために、
日々、希望を持って努力している!

そして、現在進行形で、
その真実の幸せを、
つかんでいる!

と、言っていいと思う。


もちろん、おのおの、
自分の現実的な目標や夢、
社会的な希望を、かなえようと、
努力しているのは当然(とうぜん)として、
それと同時に、
もっとも深(ふか)いところの、


『生きていること自体(じたい)が、幸せだ!』


といえるような、
生命そのものの幸せを、つかみ、
また、もっともっと、
つかもうとしている!


逆に、確固(かっこ)たる哲学がない生き方、
難(むずか)しい話しをすれば、

『生きるとは、何なのか?』

という、
最も根本的(こんぽんてき)な問題に、
明確な答えを持たない生き方、
生命そのものに、
本当の幸せと歓喜を与(あた)えてくれる
哲学がない生き方は、
結局(けっきょく)、


『幸せ芝居(しばい)』


になってしまい、
ほんとうの幸せは、つかめないと、
言えるのではないだろうか?


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


南無妙法連華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえるということは、
本当に、スゴイことだと思う。


別(べつ)に、
「生きるとは、何ぞや?」とか、
哲学(てつがく)が、どうのこうのとか、
幸せとは何ぞやとか、
そなんこと、
何にも考えなくても、
ご本尊(ほんぞん)に
南無妙法連華経を、となえる
という行動によって、
生命の真実の哲学と、
生きていくことの価値(かち)、
真実の幸せとは何かということを、
自分の身体と心で、
自然のうちに、無意識(むいしき)に
理解し、自分の生命で、
こころから感じることが、できるからです!


それは、『幸せ芝居』ではない。


大宇宙を抱(だ)きしめていくような幸せであり、
生命が生まれるような、
湧(わ)き上がっていくような喜びです。

それは、真実の道を歩んでいる
証拠(しょうこ)であり、
自分の生命が、
蘇生(そせい)している現(あらわ)れです。


その生き方は、
やがて、
自分のさまざまな悩みも解決していく結果となり、
境涯(きょうがい)が高まることによって、
さまざまな夢や希望も、
かなえていけるようになっていく。


こんな幸せなことは、
きっと、ないと思う!


そう考えると、
この南無妙法連華経の仏法(ぶっぽう)を残された
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と、
その仏法を継承(けいしょう)している
創価学会は、
ほんとうにスゴイと思うし、
こころから尊敬し、
感謝していきたいと思う・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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