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こころの音49

創価学会(そうかがっかい)で
仏法(ぶっぽう)を学んでいくなかで、
不軽菩薩(ふきょうぼさつ)という菩薩の話しが、
でてきます。

不軽菩薩(ふきょうぼさつ)というのは、
どんな人間であっても、
すべての人の中に
仏性(ぶっしょう)という、
仏(ほとけ)のように
清(きよ)らかで、強くて、素晴らしい、
最高の生命があることを説くために、
すべての人間を、
礼拝(れいはい)して回ったという菩薩(ぼさつ)です。

そのため、みんなから、
うさんくさがられ、バカにされ、
石を投げられたり、たたかれたりして、
迫害(はくがい)を受け続けました。

けれど、その行動は、
仏法(ぶっぽう)から見ると、
人間の生命を最大に尊敬(そんけい)する
正しい行動だったので、
その功徳(くどく)によって、
不軽菩薩は、宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)して、
成仏(じょうぶつ)し、
後の世に(来世・未来世に)、
釈尊(しゃくそん/釈迦・ブッタ)となって
生まれてきたという話しです。


ようするに、不軽菩薩は、
釈尊(しゃんそん・ブッタ)の、
過去世(かこせ)の姿だったということです。


その不軽菩薩の話しから、
以前、創価学会の先輩(せんぱい)が、

『人は、実(じつ)は、自分を写す鏡(かがみ)なんだ!』

という話しを、してくれた。

どういうことかというと、
人の中にある仏性(ぶっしょう/仏の生命)を
たたえるということは、
実は、自分の中にある仏性(仏の生命)を
たたえていることになり、
人を、たたえ、尊敬(そんけい)することが、
実は、自分自分を、たたえ、尊敬することになり、
自分を、自分の人生を、
幸せの方向に、
大きく、開花(かいか)させていくことになる!
ということです。


人というのは、
自分の心に反応(はんのう)して、
自分の心に、対応して、
自分の心の鏡(かがみ)のように、感情や、しぐさや、
行動を、起こしていくという
一面(いちめん)もある。

その人を、バカにして話していれば、
それは、伝(つた)わり、
相手は、
冷淡(れいたん)な態度で接(せっ)してきます。

こっちが、尊敬して対応(たいおう)していると、
相手も気持ちよくなって、
こちらを尊敬してくれます。

そう、単純(たんじゅん)には、いかないけれど、
営業にしても、
こっちが、自信なく話していれば、
相手は、軽(かる)く、あしらってきます。

こっちが、自信を持って堂々(どうどう)と話していると、
相手は、
「そうかなあ!」と思って、
乗(の)る気で、対応してくれます。


単純なようで、あたりまえのようだけれど、
確かに、そうだと思います。


『人は、自分を写(うつ)す鏡!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


人を尊敬して接すれば、接するほど、
自分も、尊敬される。


それは、なんとなく、わかる。


けれど、ここには、無理(むり)がある。


いくら、人を、心から尊敬しろと言われても、
なかなか、実際には、
難(むずか)しいこともあると思う。

また、ネックとして、
人を尊敬するためには、
自分の存在(そんざい)も、尊敬していなければ、
なかなか、できない!

自分の存在に大きな価値(かち)があり、
自分が生きているということに、
大きな尊敬を感じることができなかったら、
確かに、人を心から尊敬するということも、
できないと思う・・・。


そこが、ポイントだと思う。


自分を、心から、尊敬しているという人は、
なかなか、いないと思う。

また、心から、自分は尊敬できない!
というのが、本音(ほんね)だと思う。

自分を、尊敬するというのは、
ちょっと、おかしな表現かもしれないけれど、
自分は、本来(ほんらい)、
ほんとうに強くて、やさしくて、
あったかくて、魅力(みりょく)があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!
と、わからせてくれる、

「何かの存在」

が、必要となるのは
事実だと思う。


普通、人間は、鏡(かがみ)を見て、
自分の姿を、認識(にんしき)する。

自分は、こうなんだ!と、
鏡を、見ることによって、
わかることが、できる。

けれど、それは、見た目、
表面(ひょうめん)上のことにすぎない。

これが、もし、
自分の生命の、心の底(そこ)まで
見ることのできる鏡があったら、
自分の生命が、どういうものか?
認識することが、できる。

その、自分は、ほんとうに強くて、
やさしくて、あったかくて、魅力があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!と、
自分の生命の底から、
認識させてくれる『鏡(かがみ)』が、
実は、
創価学会が祈る対象(たいしょう)として
信望(しんぼう)している、

『ご本尊(ほんぞん)』

なんです。

※ご本尊とは、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
仏(ほとけ)の生命を文字で表現しきった、
紙などに描かれた曼荼羅(まんだら)です。


最強最高の自分を写しだす鏡!
それが、『ご本尊(ほんぞん)』!!


その、ご本尊は、仏(ほとけ)の生命そのものを、
現(あらわ)している。

仏(ほとけ)の生命というのは、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝(かがや)いた魅力的な、
しかも、無限の可能性とエネルギーを
秘(ひ)めた生命なんだけれど、
それは、そのまま、
『自分自身の生命を、現(あらわ)してもいる!』

すなわち、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
無限の可能性とエネルギーを秘(ひ)めた、
最高に素晴(すば)らしく輝いた生命が、

『自分の中』に、
『明(あき)らかに、存在している!』

ということを、
伝えるために、『ご本尊』は、ある。

ご本尊自体が、
必ず、幸せになっていける、
必ず、悩みや困難(こんなん)を乗り越(こ)えていける、
必ず、夢や希望をかなえていける、
最高にすばらしい本当の自分自身を、
そのまま映(うつ)し出した、
『鏡』
だということです。

だから、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる時、
『ご本尊』という、『自分の鏡』を見て、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝いた魅力的な自分自身を、
思い出し、感応(かんのう)して、
実際に、そういう生命が、
自分の中から、わき上がってくる。

そのことによって、
本来の自分に戻(もど)ることが、できる!!


その『本来の自分に戻る』とは、
無限の可能性とエネルギーを秘めた自分自身に、
戻ることができると、いうことです。

そして、
その自分の中から湧(わ)き上がってきた、
本来の、無限の可能性を秘(ひ)めた
生命の力によって、
悩みを解決できたり、
夢や希望をかなえていけたり、
するわけです。

また、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の中から、本当の生命の尊厳(そんげん)が、
わき上がってくるので、
そのことによって、
自分と同じように、
人も、尊敬することが、
できるようになってくる!
と、いうわけです。


日々、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえていくことによって、
それが、自然に身についていき、
無理をしなくても、
自然に、人を、尊敬する接(せっ)し方が、
できるようになっていくということです。



少し、話しましたが、
ご本尊と南無妙法蓮華経のスゴサは、
悩みや問題が解決できたり、
夢や希望をかなえていけたりして、
計(はか)り知れない可能性がありますが、
ご本尊に南無妙法蓮華経を
となえていくことによって、
自分の中から、
最高の尊厳(そんげん)がわきあがり、
また、人も心の底から、
自然に尊敬できるようになっていく!ということも、
この、『ご本尊』と、
南無妙法蓮華経の、
スゴサだと思う!


ともかく、人は自分を写す鏡・・・。

人が、自分を写す鏡だとしたら、
その鏡を、最高に素晴らしく、
魅力的な鏡にするのが、
『ご本尊』の存在であり、
自分も、人も、
最高に尊敬する行為(こうい)が、
『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経を、となえることに、
なるんだと思う・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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