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こころの音172

すべての人は、
『仏法(ぶっぽう)』を、求(もと)めている。

けれど、仏法(ぶっぽう)というと、わからない。

人が望むもの・・ 、
人が、求めるもの・・。

それは、幸せであり、
希望であり、
安らぎであり、
調和(ちょうわ)である。

音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、
さまざまな文化にしても、
人は、自分が感動し、気持ちよくなり、
心が安(やす)らかになるものを、
求めて、
それらの音楽や映画や、
スポーツや趣味によって、
それらの自分の人生にとって
プラスとなるもの・・。
すなわち、希望や調和、
勇気や挑戦する心を、高めようとする。

すなわち、それらは、
すべて生きる喜び、
幸せに向かうものであり、
それらの生きる喜びを求めて、
さまざまなことを、やっている。


では、音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、さまざまな文化にしても、
それらは、いったい、
何を求めているんだろうか・・・?


それは、当然、幸せを求めている。

その表現の結果が、
感動であったり、
勇気であったり、
安らぎであったり
調和であったりする。

実は、それらの人々が求めている、
感動や安らぎ、希望や勇気、
調和とかいうものは、
『仏法のエッセンス』の一分(いちぶん)であり、
生きる喜びのすべてが、
『仏法(ぶっぽう)』の中にあるんです。

仏法とは、
生きる喜び、
幸せそのもののようなものです。

それを、無限に内包(ないほう)したもの、
喜びと幸せの、
大元(おおもと)の無限のエネルギーが、
『仏法(ぶっぽう)』です。

だから、さまざまな音楽にしても、
映画にしても、
文学や、さまざまな文化にしても、
生きる喜びという、
『仏法のエッセンス』の一部分(いちぶぶん)を求めて、
ちまなこになっている!
と言うこともできます。

それら、感動や勇気、
希望や調和、
安らぎなどの、
人間が幸せになるために、
欲(ほ)しくて欲しくて、しょうがないもの・・・。

実は、その、
人間が、本源的(ほんげんてき)に求めているものの、
本当の姿(すがた)であり、
究極(きゅうきょく)の幸せの姿が、
創価学会(そうかがっかい)が実践する
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』なんです。

だから、本当は、
音楽にしても映画にしても
文学にしても、
あらゆる文化が、
究極的に求めているのは、
『仏法(ぶっぽう)』なんです。

はっきり言えば、
人間は、
仏法を求め、仏法に向かって、
模索(もさく)し、
それを、つかもうとしているんです。


ところが、『仏法(ぶっぽう)』と聞くと、
そっぽを向く。


まさか・・仏法が、
自分が求めているものだとは、
考えもつかないからです。


だから、人々は、必死で仏法を求め、
仏法を、つかもうとしているのに、
自分がつかもうとして模索(もさく)している幸せが、
まさか、仏法にあるとは、
考えられず、
結局、自分が欲(ほ)しがっている幸せを、
つかめず、
人生を終わってしまう。


それが、多くの人たちの、
人生だと言うことも、できます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

だから、その『仏法』に対する
偏見(へんけん)を打ち破(やぶ)り、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を求め、
実践(じっせん)していったとき、
自分のあらゆる悩みや問題が、
解決でき、
さまざまや希望や夢も、
かなえていけるようになっていく。

そして最終的に、
これ以上ない!と言える
幸せと勝利の、
最高に満足のいく人生を、
おくることができる!!


それが、すべての人が求めている、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
『仏法』です。


だから、ほんとうは、
すべての人が、
『仏法』を、求めている。

音楽にしろ、
映画にしろ、
文学にしろ、
さまざまな芸術にしろ文化にしても、
すべては『仏法』を目指(めざ)し、
仏法に近づこうと進んでいる。

人間のいとなみの、
すべては、
仏法に近づこう!仏法に近づこう!として
模索(もさく)している。


人間は、『仏法(ぶっぽう)』が、ほしいんです!!!

『仏法』を求(もと)めて求めて求め抜(ぬ)いているんです。


けれど、自分が求めている幸せが、
『仏法』であるとは、
まさか、気づかない・・・。


だから、自分が望む本当の幸せを、
つかめないまま、
人生を、終わってしまう。



だから、勇気を出してほしいと思う。



仏法は、そこにある・・!


過去の時代から、
あらゆる人が、求めて求めて、
欲(ほ)しがっていた最高の幸せは、
実は、創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
『仏法』の中に、
あるんです!


だから、この創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を、
つかんでほしい!!


なぜなら、
そこに、
すべての人が望む、
あなたが望む、
すべての幸せが、
あるからです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音171

世間のニュースなどを見ていると、
暗(くら)い話しが多い。

もちろん、明るい話題、
楽しい話題もあるけれど、
やはり、暗い出来事、ネガティプな情報が、
多いのも事実だと思う。

だから 、新聞なども、
一般紙は、
暗い話しが、多くなってくると思う。


ところが、聖教(せいきょう)新聞は、違う。

聖教新聞は、
創価学会(そうかがっかい)の機関紙だから、
創価学会の情報も多く出ているけれど、
大きな特徴(とくちょう)として、
紙面に、
「希望の言葉」、「励(はげ)ましの言葉、」
人生を前向きに挑戦していける、
「ポジティブな言葉」が、あふれている。


それは、見る人が見れば、よく!わかる・・!


ある少女がいた。・・

彼女は、創価学会員ではないけれど、
自分の家で、聖教新聞を、とることになった。

彼女は、その聖教新聞の記事を読み
聖教新聞が、大好きになった!

なぜかというと、
聖教新聞には、
「希望の言葉」、「勇気の言葉」が、
ちりばめられているからです!

そして、彼女は、
自分が好きな言葉が出てくると、
切り抜き、スクラップノートを作り、
大切にしてきた。

そのノートは、何冊(さつ)にも、なった・・!


そして、彼女は、大人になっていく。


彼女は独り立ちし、親元を離(はな)れていった。

彼女の親は、友人の勧(すす)めで、
聖教新聞をとることはあったけれど、
創価学会に対する理解は、
浅(あさ)く、あまりなかった。

だから、聖教新聞のスクラップノートを
大切にしている彼女を見て、
親は、彼女に、
「創価学会にだけは、はいるなよ!」
と言ったそうです・・・。


けれど、
世間の風潮(ふうちょう)が、
正しいとはかぎらない。

まして、世間の、
創価学会に対する、
いい加減(かげん)な記事や、
デマが、正しいわけがない。

それに、彼女は、
聖教新聞を、しっかり読んでいたので、
真実がわかっていた・・!


彼女には、確信があった。

なぜなら、聖教新聞を切り抜いた、
何冊ものスクラップノートは、
そのまま、
彼女のこころに、
希望と、勇気と、励ましとなって、
刻(きざ)まれていたからです。


そして、彼女は、創価学会に、入った!!


なぜなら、それは、
聖教新聞の希望の言葉の通り、
『幸せの道』であり、
『希望の道』であり、
『勝利の道』だからです。


そして、それは、
結局(けっきょく)、
家族や親も、
『幸せの道』『希望の道』
『勝利の道』に、導(みちび)くことになり、
親にも、
最高の幸せを、
もたらすことになっていきます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
暗い世の中の、
暗雲(あんうん)を吹(ふ)き払(はら)う、
太陽なんです。

南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の生命から、
無限のポジティプな心を引き出し、
開花していける!

そうなれば、当然、
悩みや苦難(くなん)を、
乗り越(こ)えることができ、
そのポジティプな生命から、
夢や希望も、
かなえていけるようになっていく。

こんな暗い様相(ようそう)の世の中だからこそ、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の太陽がもたらす光は、
無限に輝(かがや)いていく!!

どんなネガティブも、
追っ払(おっぱら)い、
清々(すがすが)しく、
無限の希望を持って、
進んでいける!!

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』と、
いうことなんです。


だから、聖教新聞は、明るい!!


希望が、あふれている!
勇気が、みなぎっている!
励ましの言葉に、満(み)ちている!


心というのは、不思議(ふしぎ)です。
希望があれば、どこまでも、
開花していける。
勇気があれば、
人生は、どこまでも開いていける!


その生命の息吹(いぶき)に満ちているのが、
聖教新聞であり、
希望と、勇気を、
無限に開いていく、
最強最大のポジティブ思考と言えるのが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音170

以前、
聖教(せいきょう)新聞の名字の言というコラムに、
こんな話しがのっていました。

それは、20代で関節リウマチを患(わずら)い、
寝たきりとなった女性の話しでした。

彼女は、心が荒(すさ)み、
周囲への不満が募(つの)っていった。

ある日、激励(げきれい)に訪(おとず)れた
創価学会の女子部の部長が、
枕元(まくらもと)で歌った。

ナポリ民謡(みんよう)
「オ・ソレ・ミオ(私の太陽よ)」。
それもイタリア語だった。

面食(めんく)らう彼女に、
部長が一言。


「どんなにつらいことがあっても、
生涯(しょうがい)、嵐が続くことはないのよ。」


涙があふれ、周囲に
感謝する心が生まれた。

その後、彼女は
自力で立てるようになり、
友のために祈り走る
広宣流布(こうせんるふ)の、
ヒロインに成長していった。


ちなみに広宣流布(こうせんるふ)とは、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
思想と哲学(てつがく)を基調(きちょう)として、
世界に平和と幸福を
もたらしていくことを言います。



創価学会(そうかがっかい)の強いところ、
素晴らしいところは、
こういうところにあるんだと思う。

ひとりの人間が、
ひとりの人間に、
一対一で対峙(たいじ)し、
徹(てっ)して励(はげ)ましていく。
そして、ひとりを蘇生(そせい)さて、
立ち上がらせていく。

それができる土壌(どじょう)と
哲学(てつがく)と生命のエネルギーが、
創価学会にはあるんだと思う。

無限の蘇生(そせい)のドラマを
生み出す場所が、
創価学会ではないかと思う。


とかく、孤立化(こりつか)しやすい
現代という世界。

華(はな)やかに見える人も
いるかもしれない。
幸せそうに見える人も
いるかもしれない。

けれど、精神の底にある
孤独(こどく)の闇(やみ)が、
どこかに潜(ひそ)んでいるのでは
ないだろうか・・・。

表面的には幸せそうに見えても、
心の底に闇(やみ)が隠(かく)れている。

その闇を押し隠して、
生きているような人も、
いるかもしれない。


その闇を、
打ち破(やぶ)る場所が、
創価学会だと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

欲(ほっ)しても欲しても、
満(み)たされない何か?がある。

どんなに楽しく、
幸せそうに振る舞(ふるま)っても、
心の底に満たされない何かがある。


人間が人間であることの証(あかし)・・・。
人間が人間であることの希望・・・。
人間が人間であることの尊厳(そんげん)・・・。


その、だれもが心の底で、
本当は欲している、
人間としての証(あかし)を、
つかむことのできる場所がある。

自分が人間であることの、
明確な希望と尊厳(そんげん)を、
心の底から感じ取ることのできる場所がある。


それが、創価学会だと思う。


自分が自分であることの希望。
自分が自分であることの尊厳(そんげん)。
自分が自分であることの証(あかし)。


それを、明確に、
心の底から歓喜(かんき)して、
感じ、味わい、
楽しんでいける場所が、
『創価学会』であり、
それを可能にする、
哲学であり力(ちから)であり、
エネルギーが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
心から思う・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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