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こころの音178

以前、
聖教(せいきょう)新聞に、
ブラジル文学アカデミーの
『アタイデ総裁(そうさい)』の話しが、
のっていました。

アタイデ総裁といっても、
知らないと思いますが、
アタイデ総裁は、ブラジルで、
1930、40年代、独裁(どくさい)を
真っ向(まっこう)から批判(ひはん)し、
3度の投獄(とうごく)、
3年間の国外追放(ついほう)に
耐(た)えた人物です。

70年間以上、ペンを振(ふ)るい、
発表したコラムは5万本。
テレビに20年、
ラジオには30年にわたって
毎週出演し、
人権擁護(じんけんようご)の
『声の弾丸(だんがん)』を
放(はな)ち続けた人です。


その名前は
『強靭(きょうじん)なリベラリスト(自由主義者)』
として、
ブラジルにおいては
伝統的な響(ひび)きを
持っているそうです。


そのアタイデ総裁が、
1959年から30年以上にわたって
率(ひき)いてきたのが、
南米最高の知性の殿堂(でんどう)、
『ブラジル文学アカデミー』です。

在外会員は、
トルストイ、
エミール・ゾラ、
アンドレ・マルロー
らの名が連(つら)なる。

そして、アタイデ総裁が
34年間で初めて
推薦(すいせん)したのが、
創価学会(そうかがっかい)インタナショナル会長である、
池田大作先生です。


アタイデ総裁は、言っている。


「私には池田会長の偉大(いだい)さがわかる。」

「民衆のために戦い、
苦しみ抜(ぬ)いた者にしか、
彼と、彼を支(ささ)える
香峯子婦人(池田会長婦人)
の心は分からない。」


「迫害(はくがい)を受けた者だけが、
池田会長の価値(かち)を知るのだ。」


さらに、アタイデ総裁は言う。

「一人の指導者が道を開けば、
皆がその後を
従(したが)うものです。」

「未来はひとりでに、
やってくるものではありません。
人間自身が切り開くものです。


その人間の一人が、池田大作氏です。」



そのアタイデ総裁が、
池田SGI(創価学会インタナショナル)会長と、
会見したのは、
1993年。

アタイデ総裁が94歳の時です。

その時の模様(もよう)が、
聖教新聞には、
記されていました。


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『言論(げんろん)の獅子(しし)』が、
そこにいた。

顔に刻(きざ)まれた深いしわ。
白く伸びた髪(かみ)。
何より、小さい体から
発散(はっさん)される威厳(いげん)は、
地走る者の王・ライオンを思わせた。

1993年の2月9日。
時間は午後9時。
ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、
貴賓室(きひんしつ)で
2時間も前から待っている。

リオデジャネイロのガレオン国際空港。
池田SGI(創価学会インタナショナル)会長が、
27年ぶりに、
このブラジルの古都(こと)に
降(お)り立とうとしていた。

総裁(そうさい)は94歳。
頭脳(ずのう)は明晰(めいせき)だが、
さすがに足腰(あしこし)は、
衰(おとろ)え、
ふだんは歩くのに、
2人に両脇(りょうわき)を
抱(かか)えてもらうことも、
たびたびであった。

ソファに座(すわ)る総裁に、
体調を心配(しんぱい)した
周囲(しゅうい)は、
別室で休んではどうかと勧(すす)めた。

だが、総裁は言った。

「私は、94年間も
池田会長を待っていたのです。
1時間や2時間は何ともありません。」


SGI会長を乗せた
旅客機(りょかっき)が着いた。

総裁はソファから身を起(お)こし、
ドアのほうへ、
一人で足を運(はこ)んだ。

扉(とびら)が開いた。

池田SGI会長が
両手を大きく広げて歩(あゆ)み寄(よ)り、
総裁の両腕(うで)を
下から支(ささ)えた。

「『世界の宝(たから)の人』です。
私が総裁のことを、
世界に、
永遠(えいえん)に残します!」


総裁は応(こた)えた。


「会いたい人にやっと会えました。
池田会長は、
この世紀(せいき)を
決定づけた人です。

戦いましょう。
2人で力を合わせ、
人類の歴史を変えましょう!」


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ぼくが思うに、
映画やドラマ、
小説の世界ではなく、
現実の生身(なまみ)の人間が、
こういう会話を、
かわしていること自体(じたい)、
スゴイことだ!と
思いました・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

アタイデ総裁と
池田SGI会長の2人は、
対談集の発刊(はっかん)を目指して、
口述筆記(こうじゅつひっき)などを通して、
対話を続けることで
合意(ごうい)した。

だが、
総裁の体調(たいちょう)は
思わしくなかった。

総裁の秘書は、
率直(そっちょく)に

「口述筆記も、
タイプライターで原稿(げんこう)を打つことも
無理(むり)でしょう。

最近は笑(え)みを見せることも
ないのです。」

と話した。


93年6月、SGIのスタッフから、

「回復するまで、
いつまでかかってもお待ちします。」

との池田SGI会長の伝言が、
総裁に伝えられた。

じっと聞いていた総裁が、
ほほ笑(え)んだ。

「ありがとうございます。
私にはもう時間がありません。
すぐに始めましょう。

しゃべって、しゃべって、
しゃべり抜きます。

人類の未来のため、
21世紀のために
語り継(つ)ぎましょう!!」


口述はそれから、
毎週土曜日、
リオの総裁の自宅で行われた。

SGI会長の書簡(しょかん)での質問に、
総裁は毎回2時間、
思索(しさく)を重ねながら、
身じろぎもせず、
語り続けた。

SGI会長からは
毎回、
花束(はなたば)が届けられ、
総裁はいつもそれを、
応接間(おうせつま)の
純銀(じゅんぎん)の花瓶(かびん)に
飾(かざ)って、
眺めるのだった。


最後の「対談」は
8月21日。

テーマは
「人権の闘士・マンデラに学ぶ」
であった。

その6日後に、総裁は入院した。

「私には、
やらなければならない
大事な仕事がある。

早くここを出してください。
私は、池田会長との対談を
続けなければならないのだ。」


医師や看護士に
そう何度も訴(うった)えた。


総裁が逝去(せいきょ)したのは
93年9月13日。

SGI会長は悲報(ひほう)を聞き、
すぐさま弔電(ちょうでん)を送った。

10月には
文学アカデミーの強い要請(ようせい)により、
2人の出会いを描いた
油彩画(ゆさいが)
『アタイデ総裁』が、
同アカデミーに贈られている。

さらに息女(そくじょ)の、
ラウラさんと夫のシィッセロ・サンドローニさん、
子息(しそく)のロベルト・アタイデさんを、
池田SGI会長は翌年8月、
長野研修道場で
歓迎(かんげい)した。


「父が毎日、
使っていたペンです。
父の名前が刻(きざ)まれています。」


席上、ラウルさんから、
総裁の「武器」であった
金色のボールペンが、
池田SGI会長に渡された。

友情は、家族と、
アカデミーの後継者(こうけいしゃ)たちに
受け継(つ)がれたのである。


対談集「21世紀の人権を語る」は
95年に日本語版、
2000年にポルトガル語版が
発刊(はっかん)。

未来を見通(みとお)した総裁の
『遺言(ゆいごん』で、
語らいは結(むす)ばれた。


『池田会長の存在(そんざい)は、
人類の歴史に残り、
その運動は、
時代とともに、
広がりゆくことでしょう。

そして21世紀は、
新たなヒューマニズムが実現された時代として、
人類の歴史に、
深く刻(きざ)まれることになるでしょう。』


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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