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こころの音204

先日、
ディズニーのアニメ映画、
「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、
ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、
少女たちが、カーレースで、
勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、
擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、
ヒロインのヴァネロペは、
カーレースに出たくても、
出ることができない、
不具合(ふぐあい)をもった存在として、
生きている。

いわゆる、
コンピューターの中の
『バグ』というやつで、
ヴァネロペがカーレースに出場すれば、
ゲームに不具合が発生(はっせい)し、
ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、
ゲームの世界の『お菓子の国』は、
崩壊(ほうかい)し、
みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、
自分が『バグ』であるために、
お菓子の国から逃(に)げることもできず、
死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、
ヴァネロペをカーレースに
出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、
ヴァネロペをカーレースに出場させず、
ヴァネロペを排除(はいじょ)して、
いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、
そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、
他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、
やってきたラルフは、
気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、
ヴァネロペは、
カーレースに出場する。

やがて、
お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、
暴(あば)かれ、
お菓子の国の王は、
実(じつ)は、
その国を乗(の)っ取った、
悪(あ)しき「ウイルス」であったことが
わかる。

ラルフとヴァネロペは、
そのお菓子の国を乗っ取(と)った、
悪のウイルスを倒(たお)し、
ヴァネロペは、
カーレースで勝利して、
ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、
悪のウイルスに支配(しはい)されていた
呪縛(じゅばく)が解(と)け、
お菓子の世界は、
劇的に、美しく、
平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、
劇的に変化して、
素晴らしい女王の姿(すがた)を
現(あらわ)す。



人は、
ヴァネロペのように、
環境(かんきょう)や世界、
また、それに関わる人々によって、
岐路(きろ)に立たされる場合がある。


それは、単純(たんじゅん)にいうと、
「幸せになるか」「不幸になるか」
という岐路(きろ)です。


大げさに言えば、
人はその岐路に立った時、
それを、
「自分で選んでいる!」
と言えます。

環境がどうだとか、
世間(せけん)がどうだとか、
人がどうだとか、
自分の状況(じょうきょう)がどうだとか、
いろいろなことがあって
見えづらくなっているけれど、
実は、
「幸せになるか」「不幸になるか」・・・、

それを・・、

「自分で選んでいる!」

と言えると思います。

そしてその積(つ)み重(かさ)ねが、
今の自分になっているんだと思う。


けれど、人は、
往々(おうおう)にして、
幸せになるか、不幸になるかを選んでいるのが、
自分であるということを、
忘(わす)れてしまう。

環境が悪い、
状況が悪い、
人が悪いと、
人や世の中に振(ふ)り回されて、
肝心(かんじん)なことを忘れてしまう。


それは、
幸せになるか、ならないかを決めるのは、
自分自身だということです。


ところが、だまされてしまう・・・!


さまざまな状況や周りの人たちの
見方や風潮(ふうちょう)、
自分の今のさまざまな技量(ぎりょう)
などのことを考えてしまい、
自分は幸せになれないのではないか?
などと錯覚(さっかく)してしまう。


周りの環境や状況、
まわりの人々の見方や流れに
だまされてしまい、
幸せになるか、ならないかを決めているのは、
自分自身であることを忘れてしまう。


けれど、だまされてはいけない!!


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!


ヴァネロペは、
自分が、このお菓子の世界で、
不具合(ふぐあい)、
すなわち、「バグ」として生き、
みんなから蔑(さげす)まれ、
のけ者にされて生きることもできた。


けれど、
ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、
選んだ・・!!


ゆえに、
レースに出場して、
偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、
暴かれ、
ヴァネロペはゴールして、
勝利した。


これが、
もし、ヴァネロペが、
自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、
諦(あきら)めて、
レースに出なかったら、
どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、
何も変わらず、
ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、
不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、
そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、
一歩、
踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、
新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、
自分自身で、自分を、
だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、
ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
お菓子の国の「偽りの王」、
「悪のウイルス」に、
だまされているのと同じで、
自分の中の悪(あく)のウイルスが、
自分の「本当(ほんとう)の姿」、
すなわち「幸せ」を、
出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、
もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、
だまされていたら・・、
ドラマもストーリーも、
始まらない。


まして、
幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!



仮(かり)に、
自分が、不遇(ふぐう)であり
不幸であったとする。

そうであったならば、
環境や、周(まわ)りの状況、
周りの人たちの見方や考え方に、
甘んじている必要は、
ないと思う。


試(ため)しに、
映画・シュガー・ラッシュのように、
その環境をつかさどる、
国や世界、王のほうが、
偽りの、悪しきウイルスであり、
間違っていると、
自分の環境や状況を、
ゲームのような感覚(かんかく)で
想像(そうぞう)してみたら、
何かの新しい視点(してん)が、
見えてくるかもしれない・・。

自分が、
ヴァネロペのような立場(たちば)だと、
想像してみたら、
ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、
いったん、解放されて、
精神的(せいしんてき)に、
楽(らく)になるかもしれない。

さらに、
それを、きっかけにして、
良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、
なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、
人が持っている
「宿命(しゅくめい)」というものは、
生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた
運命や境遇(きょうぐう)、
そこから引(ひ)き起こる、
さまざまな悲しみ、苦しみ、
どうして自分だけがと思うような、
辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命のようなものを、
仏法(ぶっぽう)では、
『宿業(しゅくごう)』という。

それは、
自分の中に宿(やど)ってしまっている
『業(ごう)』であり、
この「宿業」があるから、
人は苦しみ、悲しみ、
幸せになれないまま、
不幸を背負(せお)って、
生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、
やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、
そんじょそこらのことでは、
打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、
岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、
その宿業を打ち破る、
唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、
『ご本尊(ほんぞん)』だと、
言えます。

この『宿業』だけは、
創価学会の人たちが、となえている、
『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、
断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、
本当にそうだから、
しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。



人気のマンガ、
『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、
主人公の炭治郎(たんじろう)が、
修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、
「岩を切れ!」
というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、
炭治郎は、
とても、岩が、
刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、
炭治郎が、岩を切るために、
さまざまな苦心(くしん)で
努力をしている時に、
炭治郎の前に、
少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、
炭治郎に襲(おそ)いかかり、
それ以来、
二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、
とても強く、
炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、
その少年の剣士は、
鬼(おに)に殺された剣士の
幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、
鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、
登場して、
炭治郎に、さまざまな「知恵」を、
さずける。

炭治郎は、最後まで、
二人の剣士が、幽霊であることには、
気づかなかったが、
二人のおかげで、
成長していく。

やがて、
まったく歯が立たなかった少年剣士と、
互角(ごかく)に、
戦えるようになっていき、
鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、
つかんでいく。

そして、
炭治郎が、
初めて少年剣士に勝ったとき、
少年剣士は、
にっこり笑って、消えていく。


そのとき、
なぜだか、
岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、
なにか、すごい力(ちから)で、
岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、
そうは描かないで、
ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、
成長し、岩が切れたというのは、
とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、
思った。


思うに、
岩と、炭治郎だけだったら、
客観的(きゃっかんてき)にも、
岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、
二人の子供剣士の幽霊が、
加(くわ)わることによって、何かが生まれ、
人間の中にありながら、
人間の意識を超(こ)えた
『何か』の働きによって、
岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。
けれど、それを出すことは、
考えもしない。

たとえば、
思いもしない力(ちから)、
思いもしない可能性、
思いもしない希望、
思いもしない才能(さいのう)、
思いも及(およ)ばない知恵、


そして、
思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、
それを出すことのできる武器(ぶき)が、
実は、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、
ご本尊(ほんぞん)だと、
たとえることが、できます。


前の、
「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、
宿業を断ち切ることのできる、
マンガ・鬼滅の刃でいえば、
岩を切ることができる、
その、人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』が、
「南無妙法蓮華経」であり、
「ご本尊」であると言えば、
わかりやすいかもしれない。

また、
宿業を断ち切るためには、
「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、
鬼滅の刃の、
二人の幽霊剣士のような
役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、
納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、
『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』
という言葉を、使う。

「妙法」とは、
「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、
妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、
「妙法の利剣」でないと、
「宿業」という岩は、切ることができない。

それは、
鬼滅の刃の中で、
日輪刀(にちりんとう)という、
年中日光を浴びている
特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、
鬼を倒(たお)すことができないのと、
同じです。

普通の刀(かたな)で、
鬼を、どんなに切っても、
首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、
鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、
「宿業」を「鬼」にたとえるならば、
宿業という鬼は、
「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、
妙法の利剣、
すなわち、
「南無妙法蓮華経」でないと、
断ち切ることができない!
ということです。


それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
言えると思います。


※ちなみに、「ご本尊」とは、
仏(ほとけ)の生命そのものを、
目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、
同時に、自分の生命そのものを、
表現したものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

話しは違(ちが)いますが、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
このようなことを、
言っていました。


「絶対強盛(ぜったいごうじょう)な
信心(創価学会の信心)とは、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、
「おかあちゃーん」と
母親のところへ飛(と)んでいくようなものです。


その気持ちで御本尊(ごほんぞん)に願ったら、
すごいことになります。


これは理論(りろん)ではありません。
信心(しんじん)です。

母親のところへ、
死にものぐるいというか、
純粋(じゅんすい)というか、
それ以外にないのだと言う、
その一念(いちねん)で
御本尊に直結(ちょっけつ)し、
願っていけば、
どんなことも通じます。


その祈りは、かないます。


それが信心の究極(きゅうきょく)です。」


何を言いたいかというと、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰が、
どれだけスゴイか・・!

ということです。


本当に信じ、
本気(ほんき)で実践していった時、
どれだけ素晴らしい、
どれだけスゴイ結果(けっか)が生まれるか!

ということです。


そして、どれだけ幸せになっていけるか!


ということです。


だから、世の中の環境や状況にだまされてはいけない!!


創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の可能性は、
無限大(むげんだい)なのだから。


創価学会二代会長の
戸田城聖先生は、言われた。


「人生は、強気でいけ!!!」


世の中は、世界は、
良く言えば、
愛情や善意(ぜんい)に満(み)ちている。

逆(ぎゃく)に、悪く言えば、
悪意やマイナスのエネルギーが
充満(じゅうまん)しているとも
言えます。


そして、時として、
そのマイナスのエネルギーが、
自分に襲(おそ)いかかってくることもある。

さまざまな環境や状況、
人間模様(にんげんもよう)や
自分に降(ふ)りかかってきた運命が、
自分を、
押しつぶそうとする時もある。


けれど、戸田先生は言われた。


「人生は強気でいけ!!」


そして、
強気でいけるだけの
絶対的な確証(かくしょう)であり、
力(ちから)が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。


そして、決然(けつぜん)と、
その創価学会の仏法の信仰(しんこう)に
立ち上がった時、
世界の善意のエネルギー、
幸せのエネルギーが、
自分のもとに集まってくる。

自分の世界が、
善意や愛情に満ちた世界に
変わっていく。

それは・・、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペの世界が、
不幸から、幸せと平和の世界に、
変わっていったように。


そう、言えると思います。


だから、周(まわ)りがどうであれ、
状況がどうであれ、
それらの環境に、だまされてはいけない!!


なぜなら、
幸せになるか、ならいなかを決めるのは
自分自身なのだから・・・!


そして、
自分自身で幸せを切り開いていける、
自分自身で悩みを解決していける、
夢や希望をかなえていける、
決定的で最強無敵(さいきょうむてき)の
武器(ぶき)であり力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


それは、あたかも、
マンガ・鬼滅の刃の中で、
炭治郎が、
岩を、切ったように・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


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