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こころの音205

この前、マンガで、
「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、
読みました。

アニメの方は、
途中で、頓挫(とんざ)していましたが、
マンガを読んだら、
また、アニメも、
見たくなりました。


その、マンガ・進撃の巨人の後半で、
「始祖(しそ)の巨人」というのが、
登場します。

始祖の巨人は、
始まりの祖(そ)と書く通り、
全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、
巨人の先祖(せんぞ)、
巨人の大元(おおもと)と考えられます。

その始祖の巨人から、
進撃の巨人を含(ふく)め、
超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、
女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、
あらゆる巨人が誕生してきたということです。


また、
「始祖の巨人」は、
あらゆる巨人を、肉体的にも、
行動的にも、精神的にも、
意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、
それゆえに、
絶対的な力を有(ゆう)していると、
考えられます。

だから、
進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、
始祖の巨人は、
巨人たちを、意のままに操れるので、
いちばん重要(じゅうよう)で、
いちばん力があって、
いちばんスゴイということになります。


ようするに、
始祖の巨人は、
いちばん最初であり、
いちばん大元であり、
巨人の力をつかさどる、
源泉(げんせん)であり、
根源の存在(そんざい)だということです。



始祖の巨人とは関係ありませんが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)の言葉に、

「久遠元初(くおんがんじょ)」

という言葉があります。

「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、
「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、
宇宙と生命の根源というか、
始祖の巨人のように、
いちばん最初で、
いちばん大元で、
生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。

その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の
『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』
というのですが、
最も根源の法(ほう)をさとり、
その力を自由自在に
操(あやつ)ることのできる仏のことです。

イメージとしては、
ちょっと違(ちが)いますが、
始祖の巨人のようであり、
生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。


その久遠元初の仏であり、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、
実は、
「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」
なんです。

だれもが、想像(そうぞう)しそうな、
釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる

「釈尊(しゃくそん)」

ではないんです。


釈尊は、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である
日蓮大聖人の法(ほう)、
すなわち、久遠元初の生命の法則によって、
その久遠元初の法則を悟(さと)って、
仏(ほとけ)になったとされます。


本来、上下関係はないと思いますが、
位(くらい)としては、
日蓮大聖人の方が、
釈尊より偉(えら)いというイメージになります。

なぜなら、
釈尊は、
日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、
成仏(じょうぶつ)したのだから。


たとえて言えば、
進撃の巨人が、釈尊ならば、
始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、
思います。

進撃の巨人もスゴイですが、
その進撃の巨人のさまざまな力も、
始祖の巨人から授(さず)かったと、
いえるからです。


だから、
釈尊という仏(ほとけ)は、
自受用報身如来である
日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、
たとえることができます。

それゆえに、
釈尊の仏法では、
人々の心が純粋(じゅんすい)で、
擦(す)れていない時代の、
比較的(ひかくてき)、
仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、
幸せにすることができません。

だから、
現代のように、
人心(じんしん)が乱(みだ)れ、
悪(あ)しき思想が、
はびこっているような時代の人々を
幸せにする力は、
釈尊の仏法には、
ないんです。


釈尊が死んでから、
二千年後の時代のことを、
「末法(まっぽう)」といいますが、
この末法の時代が、
人心が乱れ、
悪しき思想が、うじゃうじゃと、
はびこっている時代です。


そして、
現代が、
その「末法(まっぽう)」の時代です。


ですから、
その末法という現代の時代では、
釈尊の仏法には、
なんの効力(こうりょく)もなく、
幸せにする力はありません。


それが、
釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。


そして、
その後の時代では、
釈尊より、もっとスゴイ!
もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、
人々を幸せにすることは、
できないんです。


その時代に必要となるのが、
さっき言った、
始祖の巨人です。

じゃなくて、
イメージとしては、
始祖の巨人のような存在である、
根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。

すなわち、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、
日蓮大聖人だということです。


ですから、
現代では、
すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、
人々を幸せにすることはできず、
より、大きな、
より、根源的な力のある、
日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、
人々を、
幸せにすることは、できない!
ということです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、
始祖の巨人が、
あらゆることを可能(かのう)にする
絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、
日蓮大聖人の仏法に、
どんな人心が乱れた、
悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、
幸せにすることができる、
より、大きく、
より、絶対的な力がある!!
ということです。


ゆえに、
現代では、
悩みを解決でき、
夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、

『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』

しかない!
ということになります。


その日蓮大聖人の生命の法則であり、
宇宙(うちゅう)の法則であり、
無限(むげん)の力が、
創価学会の人たちが、となえている、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

なんです。


南無妙法蓮華経には、
始祖の巨人のように、
最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、
あらゆる悩み、
あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!
ということです。


それが、
創価学会の人たちが、となえている
『南無妙法蓮華経』です。



譬(たと)え話(ばなし)にするならば、
こんな感じだと思います。


久遠元初の
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)
である日蓮大聖人が、
釈尊に頼(たの)みます。

「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、
ちょっと、先に行って、
仏法(ぶっぽう)を、
広めてきてくれないか。」

釈尊は答えます。

「はい、いいですよ。
でも、私は、
本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか
広められませんが、
それでも、いいですか?」

日蓮大聖人は、言います。

「うん!いいよ。
期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!
その後は、ぼくが、
本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」


と、
こんな感じでしょうか・・。



先程、少し、話したように、
また、譬(たと)え話にもあったように、
釈尊の仏法は、
「期間限定」なんです。

その期間が、どれだけか?といえば、
釈尊が亡(な)くなってから、
二千(2000)年間です。

その二千年は、
とうに過(す)ぎています。

ですから、
先程(さきほど)、言ったように、
釈尊の仏法には、
もう、効力(こうりょく)がないんです。


何の効力かといえば、
それは、人を幸せにする力です。


だから、
釈尊没後(ぼつご)、
二千年が経(た)った現代では、
釈尊の仏法をやっても、
なんの効力もないし、幸せにもなりせん。

かえって、
期限が切れているので、
期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、
害(がい)になってしまいます。

すなわち、
現代、釈尊の仏法をやったら、
幸せになるどころか、
不幸になってしまうということです。


それが、
現代、一般的に広まっている、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、
観光(かんこう)仏教です。


ですから、
お葬式(そうしき)などで、
葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、
お経(きょう)を読んでもらったところで、
真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、
不幸にしてもらっているようなものです。



マンガ・進撃の巨人に戻ると、
やはり、
最(もっと)も重要なポイントは、
「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。

その始祖の巨人の力を、
手に入れることが、
できるかどうかが、
勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。

そして、
その始祖の巨人は、
進撃の巨人の、
以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、
始祖の巨人の持ち主であった
王家の女性を食ったことにより、
始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、
所有(しょゆう)していた。

すなわち、
エレンの父は、
進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、
自分の中に所有していたということです。

その二つの巨人の力は、
エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、
エレンに引き継(つ)がれた。

すなわち、
エレンが、
進撃の巨人の力も、
始祖の巨人の力も、もっているということです。

だから、
最も重要な、
「始祖の巨人」は、
エレンが持っている!!

ということです。


そうなると、
エレンは無敵(むてき)ではないか!
と考えられる。

なぜなら、
巨人たちを、
意のままに操(あやつ)ることができる
『始祖の巨人』を、
自分の中に持っているからです。


ところが、
そう、うまくはいかない・・。


始祖の巨人の力を使うためには、
条件(じょうけん)があり、
その条件をクリアしないかぎり、
始祖の巨人を持っていても、
その力(ちから)を使うことができない・・。


ちょうど、
どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、
最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、
使い方を知らなければ、
なんの役にも立たないのと同じです。


宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、
いうものです。


エレンの中に、
無敵であり、無限の力である、
「始祖の巨人」の力はある。


けれで、その始祖の巨人の力を、
使うことができない!


自分の中に、その無限の力があっても、
使うことができなかったら、
無(な)いのと同じです。

それが、エレンの状態(じょうたい)です。


では、
その無敵の力である、
始祖の巨人の力を使うには、
どうしたらいいのか。

そのためには、
「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、
接触(せっしょく)しなければならない!!

王家の血を引く巨人が、
始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、
その王家の血を引く巨人と接触することによって、
はじめて、鍵が開(あ)き、
始祖の巨人の力を、使えるようになる。


だから、エレンは、
始祖の巨人の力を使うために、
王家の血を引く巨人を、
求(もと)めていきます。


その「王家の血を引く巨人」が、
エレンの腹違(はらちが)いの兄である、
『ジーク 』です。

そこで、
エレンとジークは、
始祖の巨人の力を
行使(こうし)する目的(もくてき)のために、
なんとしても、兄弟の接触を、
果(は)たそうとします。

そして、
始祖の巨人の力の行使を
避(さ)けようとしている、
もろもろの勢力(せいりょく)と、
壮絶な戦いを、
繰(く)り広げるわけです。



どんなにスゴイ力(ちから)があっても、
使うことができなかったら、
何の意味もない。


どんなに大きな可能性があっても、
その可能性を、
出すことができなかったら、
無いのと同じです。


人間の中にも、
無限の力は、ある。

人間の中にも、
無限の可能性は、ある。

エレンが、
始祖の巨人の力を持っていたように、
それに変(か)わるような、
「幸せになる力」というものが、
あると、思う。

幸せになる力があるということに
抵抗(ていこう)を感じるにしても、
どんな人でも、
幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!
と思う。

たとえば、
宝くじに当たって、
億万長者(おくまんちょうじゃ)に
なることだってある。

仮に、
99%、
宝(たから)くじに当たって
億万長者になることはないとしても、
だからといって、
無(な)いとは、いえない。

当(あ)たった人は、
現実にいるのだから。

ということは、

人間は、幸せになる可能性を、
持っている!!

ということだと思う。

また、
そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような
話しでなくとも、
必死に努力して、
運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、
幸せになる人は、山ほど、いる。


ということは、
人間は、やはり、
幸せになる力を、持っている!
ということです。


それは、可能性を無限に広げれば、
進撃の巨人の中のエレンが、
始祖の巨人の力を持っているのと、
同じようなことだと、思う・・。


そして、
エレンと同じように、
その力を、
出すことができるか、できないかが、
鍵(かぎ)となる。


エレンは、
始祖の巨人の力を持っている。

しかし、その力を、
使うことが、できない・・。


なぜか?


始祖の巨人の力を使うためには、
それを使うために、
『縁(えん)』が、
どうしても必要となるからです。

『縁』とは、
何かを起こす「きっかけ」
となる対象(たいしょう)のことですが、
その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、
始祖の巨人という無限大の力を、
使うことが、できない。

マンガ・進撃の巨人の場合、
その『縁』が、
王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、
ジークだと、いえます。


それと同じように、
人間も、幸せのなる無限の力を、
持っている。

幸せになる、
無限の可能性を、持(も)っている。


そして、その、
幸せになる無限の力を出すためには、
エレンと同じように、
『縁(えん)』が、必要となってくるんです。


その『縁(えん)』とは、何なのか?


幸せの縁とは、何なのか?


その幸せの縁の中で、
最も、強く、
最も、大きく、
究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、
『幸せの縁』が、
創価学会の人たちが、
日々、祈(いの)っている、
『ご本尊(ほんぞん)』なんです。


ご本尊とは、
仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、
そのまま表現して、
書き表(あらわ)したものですが、
その「仏の生命」が、
根源的な幸せの力であり、
最も、大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)する
エネルギーのようなものだと、
思います。


人間には、
幸せになる力が、ある・・!

その幸せになる力を引き出すためには、
『縁(えん)』が必要となる。

その幸せを引き出す縁が、
「ご本尊(ほんぞん)」だということです。


そして、
もう一つ、重要なことが、
あります。


幸せになる縁であるご本尊に、
ただ、接(せっ)すれば、
幸せの力を引き出せるかといったら、
そんなことは、ありません。

それだったら、
まだ、簡単(かんたん)かもしれない。

けれど、違います。

ご本尊から、
幸せになる力を引き出すためには、
方法(ほうほう)がある・・!

それが、
ご本尊に、

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる!

ということです。

これ以外、
ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、
ありません。


南無妙法蓮華経とは、
仏(ほとけ)の生命の名前です。

その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、
そのまま、仏の生命の無限の力も、
無限の可能性も、
含(ふく)まれているということです。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえた時、
呼(よ)ばれて、
仏の生命の無限の力も、
無限の可能性も、出てくるわけです。


進撃の巨人でいえば、
始祖の巨人の力をつかうためには、
「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、
それ以前に、
自分が「始祖の巨人の力」を、
所有(しょゆう)していなければならない。

始祖の巨人の力を所有していないものが、
王家の血を引く巨人と接触しても、
何も起(お)こらない。


それと同じように、
自分の中に、
「幸せになる無限の力」を、
所有しなければならない。

その幸せになる無限の力を所有するということが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ということになるんです。


南無妙法蓮華経をとなえるということは、
その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、
「幸せになる無限の力」を所有することに、
なっていくんです。


南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、
自分の中に、
幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、
その瞬間、
自分の中に、幸せの無限の力が、
所有されるんです。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえないと、
いけないんです。

結論(けつろん)からいうと、
本当の幸せを、つかみたいんだったら、
南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、
ありません。

ほかの何をやっても、
無理(むり)です。


それほど、南無妙法蓮華経は、
スゴイということです。


マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、
南無妙法蓮華経をとなえた時、
自分の中に、始祖の巨人を、
所有したことになる。

進撃の巨人でいえば、
南無妙法蓮華経をとなえ、
始祖の巨人を所有した状態で、
「王家の血を引く巨人」という『縁』、

すなわち、
『ご本尊』という
無限の幸せを引き出す『縁』に
接することによって、
自分の中から、
幸せが、発現(はつげん)してくる。


そう、
言えると思います・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

マンガ・進撃の巨人では、
最終的に、
エレンは、
「王家の血を引く巨人」である、
兄のジークとの接触を果(は)たし、
始祖の巨人の力を、
行使(こうし)できるようになる。

そして、
エレンの目的のために、
始祖の巨人の力を行使したとき、
なぜだか、エレンは、
少年の姿(すがた)に戻(もど)る。

そして、
少年の姿に戻ったエレンは、
叫(さけ)ぶ。


『自由だ!!!』


それは、
人間が持っている、
本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。


人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、
幸せへの希望、
さまざまな不幸の足かせを、
取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。

エレンの姿が、
少年に戻ったというのは、
それが、生命(せいめい)の上で、
可能になったということではないだろうか・・。


自由とは、
なにものにも束縛(そくばく)されない
喜(よろこ)びのようなものだろうか。

それは、
生命が、舞(ま)い上がるような感動!!

おそらく、それは、
生命が感じる、
最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。


創価学会では、
あるいは、仏法では、

『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』

だと、いう。

それは、言い方を変えれば、

『自由の中の、最大の自由!!』

ということだと思う。

南無妙法蓮華経をとなえた時、
自分の生命が、
解(と)き放(はな)たれる。

それは、
幸せの力を、
自由につかえるようになる!
ということではないだろうか。


マンガ・進撃の巨人にたとえれば、
始祖の巨人の力を、使えるようになる。

始祖の巨人の無限の力を、
行使できるようになる。

すなわち、
幸せの無限の力を使って、
さまざまな悩みを解決し、
さまざまの夢や希望をかなえ、
無限に、幸せを、つかんでいける!
ということだと思う。


だから、
南無妙法蓮華経は、
「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。



ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
自分の中から、
久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、
湧(わ)き上がり、
その生命の力を、使えるようになる。

そして、
自分の生命は、
少年や少女が、
夢を、かなえるような生命状態に、
変(か)わっていく。


歓喜の中の大歓喜は、
そんな風(ふう)に、
譬(たと)えられるかもしれない。


そして、
その生命状態は、
エレンが、
始祖の巨人の力を、
行使できるようになったのに似(に)ている。

なぜなら、
その大歓喜の生命状態には、
困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、
強い強い生命力があるので、
さながら、それは、
無敵のように思えるからです。


だから、
負けない!

だから、勝っていける!!

悩みを解決し、
希望を、叶(かな)えていける。


そして、
自分らしい、
素晴(すば)らしい、
最高の幸せを、つかんでいける。


それが、

「ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる!」

ということかもしれない。


あたかも、
それは・・、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンが、
始祖の巨人の力を行使した時、
少年の姿(すがた)に、戻り、

『自由だ!!!』

と、叫んだように・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


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