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こころの音206

先日、
マンガで、
進撃(しんげき)の巨人(きょじん)を
読みました。


この物語は、
題名(だいめい)の通り、
「進撃の巨人」が主人公であり、
進撃の巨人が、
物語の中心(ちゅうしん)にあります。

文字の通り、
進撃の巨人が、
どんな時でも、ともかく、
「進撃」、
すなわち、前進し続けることによって、
ストーリーが展開(てんかい)していきます。

これが、進撃の巨人が、
進むことを、やめてしまったら、
物語が成(な)り立たなくなるし、
終わってしまう。

だから、進撃の巨人が、
前進し続けることは、
避(さ)けることができないことであり、
絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、
言えます。


けれど、考え方を変えれば、
これはマンガ・進撃の巨人に
限(かぎ)った話しではなく、
あらゆる人間、
あらゆるケースに当(あ)てはまることです。

その『進む』ということが、
どういう意味合(いみあ)いを持つかは、
それぞれの人によって、
違(ちが)うと思いますが、
もし、進むのをやめてしまったら、
その人の『何か』が、
終わってしまう。


そう、言えると思います。


だから、
どんな人にとっても、
進むということは、
必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、
絶対条件だと、いえます。


進むということ、
前進するということは、
人生のすべてといっても、
過言(かごん)ではないと思います。


では、その「進む」ということは、
どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?


そこに、
重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。


マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、
進撃の巨人は、どんな時でも、
進み続ける。

進撃の巨人になることのできる、
進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、
主人公のエレンは、
どんなに絶望(ぜつぼう)しても、
どんなに悲しくても、
どんなに涙(なみだ)を流しても、
それでも、前進を続ける・・・!!


なぜか???


どうして、進むことができたのか???


それは、
進撃の巨人になることができる、
進撃の巨人の持ち主である、
エレンが、
『未来(みらい)』を、知っていたからです。

進撃の巨人には、
未来を見る能力(のうりょく)があり、
その能力によって、
エレンは、未来を見ていた・・!!

ゆえに、
その未来に向(む)かって、
そうなるまで、
どこまでも、進み続けたわけです。


未来を見ていたがゆえに、
どんなことがあっても、
進むことが、できた。

その未来があるがゆえに、
どんなに過酷(かこく)でも、
進むことが、できた!!!


そう、言えると思います。


けれど、
ここに、ミソがあり、
仮(かり)に、未来が見えたにしても、
それ自体、確証(かくしょう)はないし、
あやふやです。

人が聞いたら、
そんなの、妄想(もうそう)だよ!
と、いうかもしれません。

それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、
山ほど、あるわけです。

まして、
困難(こんなん)であれは、困難であるほど、
それを、否定するのは、
たやすくなります。

エレンのような場合、
進むのは、辛(つら)く、
大変な障害(しょうがい)がともない、
悲しみをふりきって進むのは、
大変な精神力とエネルギーを、
必要としたはずです。


にもかかわらず、
エレンは、進み続けた・・!


なぜか?


それは、エレンが、
『信じていたからです!!』


これが、
進むことの正体(しょうたい)であり、
原動力(げんどうりょく)だと、
言えます。


進む原動力は、
『信(しん)じる』ことにある。


エレンは、
進撃の巨人の能力によって、
未来を見て、
それを、信じることによって、
初めて、
進むことが、できた・・!



信じること・・。



ここに、重要なポイントがあるわけです。


だから、「信じること」は、
人生においても、
未来においても、
夢や希望を叶(かな)えるためにも、
もっとも、重要な位置(いち)を
占(し)めているわけです。


だから、
信じることの大小(だいしょう)、
信じることの強さやエネルギー、

あるいは、
信じるものが、
どれだけ正しいか、正しくないか。
どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、
人生は、
大きく左右(さゆう)されていくわけです。


人は、信じるということについて、
それほど深(ふか)く、
注意を向け、
考えようとはしないように思うけれど、
実(じつ)は、
興味(きょうみ)をいだき、
関心(かんしん)を向けなければならないのが、

『信じる』

というこのなのかもしれない。


では、何を信じたらいいのか?

どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、
幸せになっていけるのか?


そこに、最も重要な問題が、あります。


要(よう)は、
エレンのように、
未来を見ることができて、
そのことによって、
強力に「信じる力」が生(しょう)じ、
その信じる力によって、
どんな困難があっても、
絶対に負(ま)けないで、
最後まで、進むことができれば、
いいわけです。


そうすれは、
人生を勝利していけるだろうし、
幸せにもなっていけるはずです。


幸せの原動力も、
やはり、「信じる」ことから
始まるということです。


だから、
単純(たんじゅん)に考えれば、
良い意味で、
進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、
信じる力をもたらすものがあれば、
幸せになっていけるわけです。


信じるといっても、
間違ったものを信じたり、
不幸(ふこう)になるものを信じたら、
当然、幸せになれるはずがありません。

信じるというと、
宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、
日本においても、
一般的(いっぱんてき)に、
それらの宗教が、
観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、
儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか
考えられていないのは、
それらの宗教が、現実問題として、
なんの力もない!
ということです。

力がないだけならいいのですが、
それらの宗教は、間違っているので、
逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、
人を、不幸にしてしまいます。

それらの宗教は、
人間の中の「幸せになる力」を弱め、
不幸へと誘(さそ)い、
不幸へと引きずり、
結局(けっきょく)のところ、
人間を不幸にしてしまいます。


それが、日本の、
観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、
葬式(そうしき)宗教だと、
いえます。


だから、それらのものは、
幸せになる「信じる力」には、
なりえません。


宗教というと、
神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、
区切(くぎ)りの行事のような、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、
そうではなく、
エレンが前進したように、
「信じる力」によって、
人間が本来(ほんらい)、持っている、
幸せになる力を無限に引き出し、
開花(かいか)させるものが必要だ!
ということです。


信じる力によって、
幸せになる力を、引き出す!!


そのための宗教が、
必要だ!ということです。


宗教と考えるのがいやだったら、
幸せになるためのルーティン 、
幸せになるために、
信じる力を引き出すルーティンと考えても、
いいかもしれません。


その、信じる力によって、
あらゆる幸せを、
無限(むげん)に引き出すルーティンが、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、
ご本尊(ほんぞん)に
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。


たとえるならば、
進撃の巨人のように、
あたかも、未来が見えているような
「信じる力」をもたらすもの、

そして、
あたかも進撃の巨人のように、
どんなことがあっても、
幸せに向かって前進できる、
無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、
創価学会(そうかがっかい)の
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
をとなえる、
『仏法(ぶっぽう)』の信仰だと
いうことです。


ここで、
正しいということ、
間違(まちが)っていないということ、
幸せになるために価値があるということが、
最も大切(たいせつ)になってきますから
言いますが、
信じることにおいて、
本当(ほんとう)に正しく、
本当に価値(かち)があり、
本当に幸せになる力をもたらすものは、
この、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。



進撃の巨人に戻ると、
マンガの後半で、
「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、
登場します。

始祖ユミルは、
マンガ・進撃の巨人に中で、
主人公のエレンが生きている時代から
二千(2000)年まえに生まれた、
奴隷(どれい)の少女で、
ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、
王に殺されかけます。

逃亡(とうぼう)の途中、
多くの矢(や)を受け、
死にかけますが、
深い穴(あな)に落ち、
有機生物(ゆうきせいぶつ)の
起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、
そこで、巨人の力を得て、
復活(ふっかつ)します。

マンガ的には、
大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、
巨人になる能力を手に入れたと
されています。

その後、
巨人になる力は、
始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、
子供たちから子孫(しそん)へと、
受け継がれます。

その巨人になる能力のある人々のことを、
「ユミルの民(たみ)」といい、
悪魔の民として、
恐(おそ)れられます。


そして、始祖ユミルは、
死後も、
過去も未来もない、
時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、
そこで、延々(えんえん)と、
巨人を創(つく)り続け、
巨人たちの能力や肉体を、
つかさどっているとされています。


すなわち、
ある意図(いと)をもって、
巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、
始祖ユミルの存在する世界に行き、
始祖ユミルと接触(せっしょく)し、
「こうしてくれ!」
と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、
始祖ユミルが、その願いを受け入れ、
始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、
願いが実現していくと、
いいことです。


そのため、
主人公のエレンは、
すべての巨人やユミルの民を、
意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、
「始祖の巨人の力」を使うために、
始祖ユミル との接触を、
試(こころ)みる。

エレンは、
始祖ユミルとの接触を
阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、
殺されかかるが、
すんでのところで、
始祖ユミルとの接触を果(は)たす。


やがて、
エレンの願いと思いは、
始祖ユミルに通(つう)じ、
ユミルは、エレンの願いを受け入れ、
その願いを実行します。


そして、
始祖の巨人の持つ、
強大な力が、動き出す。


この始祖ユミルが存在している世界、
過去も未来もない、
時空を超えた世界に、
エレンがいた時間は、
永遠のように永(なが)くも感じられる。

けれど、
現実の世界に戻ってみると、
始祖ユミルの世界にいた時間が、
ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、
わかります。


1秒にも満たない時間の中に、
無限のように長(なが)い、
ドラマとストーリー、
そして、無限の価値があった!
と、いうことです。


思うに、
もしかしたら、
「祈(いの)り」とは、
こういうものではないか?
と、思いました。


祈りといっても、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、
創価学会の人たちが、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
信じる力を、
無限に引き出そうとする「祈り」のことです。


確かに、
南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、
一瞬(いっしゅん)かもしれない。

けれど、
そこに、未来を動かす
無限のストーリーと価値が、
あるのかもしれない。


だから、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、
願いを叶える力が、
あるのかもしれない。


ご本尊に、
南無妙法蓮華経をとなえて祈る、
その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、
表面的には、
何かが、大きく変(か)わるということは、
ないかもしれない。

もちろん、
時として、
南無妙法蓮華経をとなえた後、
劇的(げきてき)に何かが変わるということも、
あります。

けれど、普通(ふつう)は、
南無妙法蓮華経をとなえた後、
見た目(みため)、
何かが大きく変わって見えるということは、
ないかもしれない。

けれど、
表面的には変わっていなくても、
何かが、大きく変わっている。

未来という結果(けっか)が、
幸せの方向に、
大きく変わっていると、
いえるかもしれない。

だから、
心が、スッキリするし、
清々(すがすが)しくなる。

素晴らしい歓喜(かんき)を、
感じるときもある。


それは、表面的には変わっていなくても、
未来が幸せに変わったから、
そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。


たとえば、
家電(かでん)など、
動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、
修理から戻ってきても、
だいたい、見た目が変わるわけではない。


けれど、
劇的に変わっている!!


なぜなら、
動かなかったものが、
動くようになっているのだから!


それと同じように、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、
「自分の世界」という家電を、
修理するようなものかもしれない。

南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、
「自分の世界」の見た目は、
変わっていなくても、
「自分の未来の世界」が、
幸せの方向(ほうこう)に、
劇的に変わっている!!


そう、言えるかもしれない・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、

「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、
正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)
・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と
無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて
此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」

と言っています。


『宝塔(ほうとう)』とは、
金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、
世界の美しい花や自然、
素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、
地球の直径の3分の1もの大きさがある、
巨大な塔(とう)で、
ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、
考えられます。


これが、何を意味しているかといえば、
この宝塔は、
「自分の生命(せいめい)」を、
表現(ひょうげん)しています。


「自分の生命」には、
それだけスゴイ、
宝と幸せが、詰まっていると、
いうことです。


また、その、
ありとあらゆる宝石や幸せが、
詰まった宝塔(ほうとう)を、
文字で表現したものが、
『ご本尊(ほんぞん)』
でもあります。


その宝塔の中に、
どうやって入っていくのか?

言い方を変えれば、
それだけの宝(たから)や幸せを、
どうやって、自分のものにしていくのか?

といえば、

『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』

すなわち、
純粋(じゅんすい)に、
信じることによって、

その宝の塔(とう)の中に入ることができる。

すなわち、
ご本尊を、
純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、
ありとあらゆる宝石や幸せを、
つかむことが、できる!!

と、言っています。


この話しは、
さきほどの、
進撃の巨人の中の、
「始祖ユミル」の話しに
少し、似(に)ているかもしれない。

信じることによって生(しょう)じた
前進する力によって、
始祖ユミルの世界に行き、
ユミルに自分の願いを伝え、
その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、
始祖ユミルがそれを実行した時に、
願いが叶(かな)っていく。


同じように、
創価学会の人たちが、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、
その「信じる力」のよって、
ご本尊という、
幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、
自分の生命が入っていく。


そして、
ご本尊に願いが伝わり、
自分の願いが、かなっていく!!


そう、たとえることが、
できるかもしれない・・。


ご本尊は、
功徳聚(くどくじゅ)といい、
功徳(くどく)の集まりだという。

功徳とは、
物質的であれ、精神的であれ、
この仏法(ぶっぽう)の実践によって、
自分の生命に授(さず)けられる、
『幸せ』という、
とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。

また、ご本尊は、
輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、
車輪が円を描くように、
ありとあらゆる、一切の功徳が、
欠(か)けることなく、そなわっている。


すなわち、ありとあらゆる幸せが、
欠けることなく、
ご本尊(ほんぞん)の中にある!!
ということです。


それが、
ご本尊という『宝塔』だろうか。


その、ご本尊という
幸せの塔(とう)には、
欠けることなく、
あらゆる幸せがあるのだから、
自分の望む幸せも、
必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!
と考えられます。

ゆえに、
純粋無二に、信じて、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経をとなえていった時、
その中に(ご本尊の中に)、
自分の幸せもある!!ので、
自分の願いや幸せも、
当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!


そう、
表現できるのかも、しれない・・・。


池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、

子どもが怖(こわ)いことが起こると、
「おかあちゃーん」と
母親のところへ飛(と)んでいくように、
母親のところへ、
死にものぐるいというか、
純粋(じゅんすい)というか、
それ以外にないのだと言う、
その一念(いちねん)で
御本尊に直結(ちょっけつ)し、
願っていけば、
どんなことも通じます。

その祈りは、かないます。


と言っています。


真剣(しんけん)を超(こ)えた、
純粋な祈りは、
ご本尊に通(つう)じ、
そして、
祈りは、かなっていく。


それは、
進撃の巨人の中で、
エレンの、
真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、
始祖ユミルに通じ、
ユミルが、エレンの願いを
実現していったようなものです。



ともかく、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンは、進み続けた。

そこにしか、活路(かつろ)はないからです。

そして、
その進撃するエネルギーは、
強力に信じる力にあった。

その信じる力ゆえに、
負けなかった。

信じているがゆえに、
どんな絶望にも、耐(た)えた。

どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。


それは、
人生を勝利し、幸せになっていく
道のりと同じだと思う。


そう考えた時、
どうしても、信じる力が、
必要となる。


強く、
誤(あやま)りなく、
最高に価値のある
「信じる力」が、必要となる。


その、
最も、強力で、
最も、正しく、
最も、価値のある、
最高に幸せになる『信じる力』が、
創価学会が実践(じっせん)している、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
いうことです。


それは、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンが、
どんなに辛くても、
どんなに悲しくても、
どんなに苦しくても、
どんなに絶望しても、
最後の最後まで、前進し続けて、
自分の目的を、
果たしていったように・・・!!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


共通テーマ:日記・雑感

こころの音205

この前、マンガで、
「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、
読みました。

アニメの方は、
途中で、頓挫(とんざ)していましたが、
マンガを読んだら、
また、アニメも、
見たくなりました。


その、マンガ・進撃の巨人の後半で、
「始祖(しそ)の巨人」というのが、
登場します。

始祖の巨人は、
始まりの祖(そ)と書く通り、
全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、
巨人の先祖(せんぞ)、
巨人の大元(おおもと)と考えられます。

その始祖の巨人から、
進撃の巨人を含(ふく)め、
超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、
女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、
あらゆる巨人が誕生してきたということです。


また、
「始祖の巨人」は、
あらゆる巨人を、肉体的にも、
行動的にも、精神的にも、
意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、
それゆえに、
絶対的な力を有(ゆう)していると、
考えられます。

だから、
進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、
始祖の巨人は、
巨人たちを、意のままに操れるので、
いちばん重要(じゅうよう)で、
いちばん力があって、
いちばんスゴイということになります。


ようするに、
始祖の巨人は、
いちばん最初であり、
いちばん大元であり、
巨人の力をつかさどる、
源泉(げんせん)であり、
根源の存在(そんざい)だということです。



始祖の巨人とは関係ありませんが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)の言葉に、

「久遠元初(くおんがんじょ)」

という言葉があります。

「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、
「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、
宇宙と生命の根源というか、
始祖の巨人のように、
いちばん最初で、
いちばん大元で、
生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。

その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の
『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』
というのですが、
最も根源の法(ほう)をさとり、
その力を自由自在に
操(あやつ)ることのできる仏のことです。

イメージとしては、
ちょっと違(ちが)いますが、
始祖の巨人のようであり、
生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。


その久遠元初の仏であり、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、
実は、
「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」
なんです。

だれもが、想像(そうぞう)しそうな、
釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる

「釈尊(しゃくそん)」

ではないんです。


釈尊は、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である
日蓮大聖人の法(ほう)、
すなわち、久遠元初の生命の法則によって、
その久遠元初の法則を悟(さと)って、
仏(ほとけ)になったとされます。


本来、上下関係はないと思いますが、
位(くらい)としては、
日蓮大聖人の方が、
釈尊より偉(えら)いというイメージになります。

なぜなら、
釈尊は、
日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、
成仏(じょうぶつ)したのだから。


たとえて言えば、
進撃の巨人が、釈尊ならば、
始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、
思います。

進撃の巨人もスゴイですが、
その進撃の巨人のさまざまな力も、
始祖の巨人から授(さず)かったと、
いえるからです。


だから、
釈尊という仏(ほとけ)は、
自受用報身如来である
日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、
たとえることができます。

それゆえに、
釈尊の仏法では、
人々の心が純粋(じゅんすい)で、
擦(す)れていない時代の、
比較的(ひかくてき)、
仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、
幸せにすることができません。

だから、
現代のように、
人心(じんしん)が乱(みだ)れ、
悪(あ)しき思想が、
はびこっているような時代の人々を
幸せにする力は、
釈尊の仏法には、
ないんです。


釈尊が死んでから、
二千年後の時代のことを、
「末法(まっぽう)」といいますが、
この末法の時代が、
人心が乱れ、
悪しき思想が、うじゃうじゃと、
はびこっている時代です。


そして、
現代が、
その「末法(まっぽう)」の時代です。


ですから、
その末法という現代の時代では、
釈尊の仏法には、
なんの効力(こうりょく)もなく、
幸せにする力はありません。


それが、
釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。


そして、
その後の時代では、
釈尊より、もっとスゴイ!
もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、
人々を幸せにすることは、
できないんです。


その時代に必要となるのが、
さっき言った、
始祖の巨人です。

じゃなくて、
イメージとしては、
始祖の巨人のような存在である、
根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。

すなわち、
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、
日蓮大聖人だということです。


ですから、
現代では、
すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、
人々を幸せにすることはできず、
より、大きな、
より、根源的な力のある、
日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、
人々を、
幸せにすることは、できない!
ということです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、
始祖の巨人が、
あらゆることを可能(かのう)にする
絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、
日蓮大聖人の仏法に、
どんな人心が乱れた、
悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、
幸せにすることができる、
より、大きく、
より、絶対的な力がある!!
ということです。


ゆえに、
現代では、
悩みを解決でき、
夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、

『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』

しかない!
ということになります。


その日蓮大聖人の生命の法則であり、
宇宙(うちゅう)の法則であり、
無限(むげん)の力が、
創価学会の人たちが、となえている、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

なんです。


南無妙法蓮華経には、
始祖の巨人のように、
最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、
あらゆる悩み、
あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!
ということです。


それが、
創価学会の人たちが、となえている
『南無妙法蓮華経』です。



譬(たと)え話(ばなし)にするならば、
こんな感じだと思います。


久遠元初の
自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)
である日蓮大聖人が、
釈尊に頼(たの)みます。

「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、
ちょっと、先に行って、
仏法(ぶっぽう)を、
広めてきてくれないか。」

釈尊は答えます。

「はい、いいですよ。
でも、私は、
本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか
広められませんが、
それでも、いいですか?」

日蓮大聖人は、言います。

「うん!いいよ。
期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!
その後は、ぼくが、
本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」


と、
こんな感じでしょうか・・。



先程、少し、話したように、
また、譬(たと)え話にもあったように、
釈尊の仏法は、
「期間限定」なんです。

その期間が、どれだけか?といえば、
釈尊が亡(な)くなってから、
二千(2000)年間です。

その二千年は、
とうに過(す)ぎています。

ですから、
先程(さきほど)、言ったように、
釈尊の仏法には、
もう、効力(こうりょく)がないんです。


何の効力かといえば、
それは、人を幸せにする力です。


だから、
釈尊没後(ぼつご)、
二千年が経(た)った現代では、
釈尊の仏法をやっても、
なんの効力もないし、幸せにもなりせん。

かえって、
期限が切れているので、
期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、
害(がい)になってしまいます。

すなわち、
現代、釈尊の仏法をやったら、
幸せになるどころか、
不幸になってしまうということです。


それが、
現代、一般的に広まっている、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、
観光(かんこう)仏教です。


ですから、
お葬式(そうしき)などで、
葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、
お経(きょう)を読んでもらったところで、
真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、
不幸にしてもらっているようなものです。



マンガ・進撃の巨人に戻ると、
やはり、
最(もっと)も重要なポイントは、
「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。

その始祖の巨人の力を、
手に入れることが、
できるかどうかが、
勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。

そして、
その始祖の巨人は、
進撃の巨人の、
以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、
始祖の巨人の持ち主であった
王家の女性を食ったことにより、
始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、
所有(しょゆう)していた。

すなわち、
エレンの父は、
進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、
自分の中に所有していたということです。

その二つの巨人の力は、
エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、
エレンに引き継(つ)がれた。

すなわち、
エレンが、
進撃の巨人の力も、
始祖の巨人の力も、もっているということです。

だから、
最も重要な、
「始祖の巨人」は、
エレンが持っている!!

ということです。


そうなると、
エレンは無敵(むてき)ではないか!
と考えられる。

なぜなら、
巨人たちを、
意のままに操(あやつ)ることができる
『始祖の巨人』を、
自分の中に持っているからです。


ところが、
そう、うまくはいかない・・。


始祖の巨人の力を使うためには、
条件(じょうけん)があり、
その条件をクリアしないかぎり、
始祖の巨人を持っていても、
その力(ちから)を使うことができない・・。


ちょうど、
どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、
最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、
使い方を知らなければ、
なんの役にも立たないのと同じです。


宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、
いうものです。


エレンの中に、
無敵であり、無限の力である、
「始祖の巨人」の力はある。


けれで、その始祖の巨人の力を、
使うことができない!


自分の中に、その無限の力があっても、
使うことができなかったら、
無(な)いのと同じです。

それが、エレンの状態(じょうたい)です。


では、
その無敵の力である、
始祖の巨人の力を使うには、
どうしたらいいのか。

そのためには、
「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、
接触(せっしょく)しなければならない!!

王家の血を引く巨人が、
始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、
その王家の血を引く巨人と接触することによって、
はじめて、鍵が開(あ)き、
始祖の巨人の力を、使えるようになる。


だから、エレンは、
始祖の巨人の力を使うために、
王家の血を引く巨人を、
求(もと)めていきます。


その「王家の血を引く巨人」が、
エレンの腹違(はらちが)いの兄である、
『ジーク 』です。

そこで、
エレンとジークは、
始祖の巨人の力を
行使(こうし)する目的(もくてき)のために、
なんとしても、兄弟の接触を、
果(は)たそうとします。

そして、
始祖の巨人の力の行使を
避(さ)けようとしている、
もろもろの勢力(せいりょく)と、
壮絶な戦いを、
繰(く)り広げるわけです。



どんなにスゴイ力(ちから)があっても、
使うことができなかったら、
何の意味もない。


どんなに大きな可能性があっても、
その可能性を、
出すことができなかったら、
無いのと同じです。


人間の中にも、
無限の力は、ある。

人間の中にも、
無限の可能性は、ある。

エレンが、
始祖の巨人の力を持っていたように、
それに変(か)わるような、
「幸せになる力」というものが、
あると、思う。

幸せになる力があるということに
抵抗(ていこう)を感じるにしても、
どんな人でも、
幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!
と思う。

たとえば、
宝くじに当たって、
億万長者(おくまんちょうじゃ)に
なることだってある。

仮に、
99%、
宝(たから)くじに当たって
億万長者になることはないとしても、
だからといって、
無(な)いとは、いえない。

当(あ)たった人は、
現実にいるのだから。

ということは、

人間は、幸せになる可能性を、
持っている!!

ということだと思う。

また、
そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような
話しでなくとも、
必死に努力して、
運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、
幸せになる人は、山ほど、いる。


ということは、
人間は、やはり、
幸せになる力を、持っている!
ということです。


それは、可能性を無限に広げれば、
進撃の巨人の中のエレンが、
始祖の巨人の力を持っているのと、
同じようなことだと、思う・・。


そして、
エレンと同じように、
その力を、
出すことができるか、できないかが、
鍵(かぎ)となる。


エレンは、
始祖の巨人の力を持っている。

しかし、その力を、
使うことが、できない・・。


なぜか?


始祖の巨人の力を使うためには、
それを使うために、
『縁(えん)』が、
どうしても必要となるからです。

『縁』とは、
何かを起こす「きっかけ」
となる対象(たいしょう)のことですが、
その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、
始祖の巨人という無限大の力を、
使うことが、できない。

マンガ・進撃の巨人の場合、
その『縁』が、
王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、
ジークだと、いえます。


それと同じように、
人間も、幸せのなる無限の力を、
持っている。

幸せになる、
無限の可能性を、持(も)っている。


そして、その、
幸せになる無限の力を出すためには、
エレンと同じように、
『縁(えん)』が、必要となってくるんです。


その『縁(えん)』とは、何なのか?


幸せの縁とは、何なのか?


その幸せの縁の中で、
最も、強く、
最も、大きく、
究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、
『幸せの縁』が、
創価学会の人たちが、
日々、祈(いの)っている、
『ご本尊(ほんぞん)』なんです。


ご本尊とは、
仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、
そのまま表現して、
書き表(あらわ)したものですが、
その「仏の生命」が、
根源的な幸せの力であり、
最も、大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)する
エネルギーのようなものだと、
思います。


人間には、
幸せになる力が、ある・・!

その幸せになる力を引き出すためには、
『縁(えん)』が必要となる。

その幸せを引き出す縁が、
「ご本尊(ほんぞん)」だということです。


そして、
もう一つ、重要なことが、
あります。


幸せになる縁であるご本尊に、
ただ、接(せっ)すれば、
幸せの力を引き出せるかといったら、
そんなことは、ありません。

それだったら、
まだ、簡単(かんたん)かもしれない。

けれど、違います。

ご本尊から、
幸せになる力を引き出すためには、
方法(ほうほう)がある・・!

それが、
ご本尊に、

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる!

ということです。

これ以外、
ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、
ありません。


南無妙法蓮華経とは、
仏(ほとけ)の生命の名前です。

その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、
そのまま、仏の生命の無限の力も、
無限の可能性も、
含(ふく)まれているということです。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえた時、
呼(よ)ばれて、
仏の生命の無限の力も、
無限の可能性も、出てくるわけです。


進撃の巨人でいえば、
始祖の巨人の力をつかうためには、
「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、
それ以前に、
自分が「始祖の巨人の力」を、
所有(しょゆう)していなければならない。

始祖の巨人の力を所有していないものが、
王家の血を引く巨人と接触しても、
何も起(お)こらない。


それと同じように、
自分の中に、
「幸せになる無限の力」を、
所有しなければならない。

その幸せになる無限の力を所有するということが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ということになるんです。


南無妙法蓮華経をとなえるということは、
その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、
「幸せになる無限の力」を所有することに、
なっていくんです。


南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、
自分の中に、
幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、
その瞬間、
自分の中に、幸せの無限の力が、
所有されるんです。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえないと、
いけないんです。

結論(けつろん)からいうと、
本当の幸せを、つかみたいんだったら、
南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、
ありません。

ほかの何をやっても、
無理(むり)です。


それほど、南無妙法蓮華経は、
スゴイということです。


マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、
南無妙法蓮華経をとなえた時、
自分の中に、始祖の巨人を、
所有したことになる。

進撃の巨人でいえば、
南無妙法蓮華経をとなえ、
始祖の巨人を所有した状態で、
「王家の血を引く巨人」という『縁』、

すなわち、
『ご本尊』という
無限の幸せを引き出す『縁』に
接することによって、
自分の中から、
幸せが、発現(はつげん)してくる。


そう、
言えると思います・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

マンガ・進撃の巨人では、
最終的に、
エレンは、
「王家の血を引く巨人」である、
兄のジークとの接触を果(は)たし、
始祖の巨人の力を、
行使(こうし)できるようになる。

そして、
エレンの目的のために、
始祖の巨人の力を行使したとき、
なぜだか、エレンは、
少年の姿(すがた)に戻(もど)る。

そして、
少年の姿に戻ったエレンは、
叫(さけ)ぶ。


『自由だ!!!』


それは、
人間が持っている、
本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。


人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、
幸せへの希望、
さまざまな不幸の足かせを、
取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。

エレンの姿が、
少年に戻ったというのは、
それが、生命(せいめい)の上で、
可能になったということではないだろうか・・。


自由とは、
なにものにも束縛(そくばく)されない
喜(よろこ)びのようなものだろうか。

それは、
生命が、舞(ま)い上がるような感動!!

おそらく、それは、
生命が感じる、
最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。


創価学会では、
あるいは、仏法では、

『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』

だと、いう。

それは、言い方を変えれば、

『自由の中の、最大の自由!!』

ということだと思う。

南無妙法蓮華経をとなえた時、
自分の生命が、
解(と)き放(はな)たれる。

それは、
幸せの力を、
自由につかえるようになる!
ということではないだろうか。


マンガ・進撃の巨人にたとえれば、
始祖の巨人の力を、使えるようになる。

始祖の巨人の無限の力を、
行使できるようになる。

すなわち、
幸せの無限の力を使って、
さまざまな悩みを解決し、
さまざまの夢や希望をかなえ、
無限に、幸せを、つかんでいける!
ということだと思う。


だから、
南無妙法蓮華経は、
「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。



ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
自分の中から、
久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、
湧(わ)き上がり、
その生命の力を、使えるようになる。

そして、
自分の生命は、
少年や少女が、
夢を、かなえるような生命状態に、
変(か)わっていく。


歓喜の中の大歓喜は、
そんな風(ふう)に、
譬(たと)えられるかもしれない。


そして、
その生命状態は、
エレンが、
始祖の巨人の力を、
行使できるようになったのに似(に)ている。

なぜなら、
その大歓喜の生命状態には、
困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、
強い強い生命力があるので、
さながら、それは、
無敵のように思えるからです。


だから、
負けない!

だから、勝っていける!!

悩みを解決し、
希望を、叶(かな)えていける。


そして、
自分らしい、
素晴(すば)らしい、
最高の幸せを、つかんでいける。


それが、

「ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる!」

ということかもしれない。


あたかも、
それは・・、
マンガ・進撃の巨人の中で、
エレンが、
始祖の巨人の力を行使した時、
少年の姿(すがた)に、戻り、

『自由だ!!!』

と、叫んだように・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


共通テーマ:日記・雑感

こころの音204

先日、
ディズニーのアニメ映画、
「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、
ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、
少女たちが、カーレースで、
勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、
擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、
ヒロインのヴァネロペは、
カーレースに出たくても、
出ることができない、
不具合(ふぐあい)をもった存在として、
生きている。

いわゆる、
コンピューターの中の
『バグ』というやつで、
ヴァネロペがカーレースに出場すれば、
ゲームに不具合が発生(はっせい)し、
ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、
ゲームの世界の『お菓子の国』は、
崩壊(ほうかい)し、
みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、
自分が『バグ』であるために、
お菓子の国から逃(に)げることもできず、
死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、
ヴァネロペをカーレースに
出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、
ヴァネロペをカーレースに出場させず、
ヴァネロペを排除(はいじょ)して、
いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、
そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、
他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、
やってきたラルフは、
気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、
ヴァネロペは、
カーレースに出場する。

やがて、
お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、
暴(あば)かれ、
お菓子の国の王は、
実(じつ)は、
その国を乗(の)っ取った、
悪(あ)しき「ウイルス」であったことが
わかる。

ラルフとヴァネロペは、
そのお菓子の国を乗っ取(と)った、
悪のウイルスを倒(たお)し、
ヴァネロペは、
カーレースで勝利して、
ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、
悪のウイルスに支配(しはい)されていた
呪縛(じゅばく)が解(と)け、
お菓子の世界は、
劇的に、美しく、
平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、
劇的に変化して、
素晴らしい女王の姿(すがた)を
現(あらわ)す。



人は、
ヴァネロペのように、
環境(かんきょう)や世界、
また、それに関わる人々によって、
岐路(きろ)に立たされる場合がある。


それは、単純(たんじゅん)にいうと、
「幸せになるか」「不幸になるか」
という岐路(きろ)です。


大げさに言えば、
人はその岐路に立った時、
それを、
「自分で選んでいる!」
と言えます。

環境がどうだとか、
世間(せけん)がどうだとか、
人がどうだとか、
自分の状況(じょうきょう)がどうだとか、
いろいろなことがあって
見えづらくなっているけれど、
実は、
「幸せになるか」「不幸になるか」・・・、

それを・・、

「自分で選んでいる!」

と言えると思います。

そしてその積(つ)み重(かさ)ねが、
今の自分になっているんだと思う。


けれど、人は、
往々(おうおう)にして、
幸せになるか、不幸になるかを選んでいるのが、
自分であるということを、
忘(わす)れてしまう。

環境が悪い、
状況が悪い、
人が悪いと、
人や世の中に振(ふ)り回されて、
肝心(かんじん)なことを忘れてしまう。


それは、
幸せになるか、ならないかを決めるのは、
自分自身だということです。


ところが、だまされてしまう・・・!


さまざまな状況や周りの人たちの
見方や風潮(ふうちょう)、
自分の今のさまざまな技量(ぎりょう)
などのことを考えてしまい、
自分は幸せになれないのではないか?
などと錯覚(さっかく)してしまう。


周りの環境や状況、
まわりの人々の見方や流れに
だまされてしまい、
幸せになるか、ならないかを決めているのは、
自分自身であることを忘れてしまう。


けれど、だまされてはいけない!!


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!


ヴァネロペは、
自分が、このお菓子の世界で、
不具合(ふぐあい)、
すなわち、「バグ」として生き、
みんなから蔑(さげす)まれ、
のけ者にされて生きることもできた。


けれど、
ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、
選んだ・・!!


ゆえに、
レースに出場して、
偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、
暴かれ、
ヴァネロペはゴールして、
勝利した。


これが、
もし、ヴァネロペが、
自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、
諦(あきら)めて、
レースに出なかったら、
どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、
何も変わらず、
ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、
不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、
そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、
一歩、
踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、
新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、
自分自身で、自分を、
だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、
ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
お菓子の国の「偽りの王」、
「悪のウイルス」に、
だまされているのと同じで、
自分の中の悪(あく)のウイルスが、
自分の「本当(ほんとう)の姿」、
すなわち「幸せ」を、
出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、
もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、
だまされていたら・・、
ドラマもストーリーも、
始まらない。


まして、
幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!



仮(かり)に、
自分が、不遇(ふぐう)であり
不幸であったとする。

そうであったならば、
環境や、周(まわ)りの状況、
周りの人たちの見方や考え方に、
甘んじている必要は、
ないと思う。


試(ため)しに、
映画・シュガー・ラッシュのように、
その環境をつかさどる、
国や世界、王のほうが、
偽りの、悪しきウイルスであり、
間違っていると、
自分の環境や状況を、
ゲームのような感覚(かんかく)で
想像(そうぞう)してみたら、
何かの新しい視点(してん)が、
見えてくるかもしれない・・。

自分が、
ヴァネロペのような立場(たちば)だと、
想像してみたら、
ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、
いったん、解放されて、
精神的(せいしんてき)に、
楽(らく)になるかもしれない。

さらに、
それを、きっかけにして、
良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、
なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、
人が持っている
「宿命(しゅくめい)」というものは、
生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた
運命や境遇(きょうぐう)、
そこから引(ひ)き起こる、
さまざまな悲しみ、苦しみ、
どうして自分だけがと思うような、
辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命のようなものを、
仏法(ぶっぽう)では、
『宿業(しゅくごう)』という。

それは、
自分の中に宿(やど)ってしまっている
『業(ごう)』であり、
この「宿業」があるから、
人は苦しみ、悲しみ、
幸せになれないまま、
不幸を背負(せお)って、
生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、
やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、
そんじょそこらのことでは、
打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、
岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、
その宿業を打ち破る、
唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、
『ご本尊(ほんぞん)』だと、
言えます。

この『宿業』だけは、
創価学会の人たちが、となえている、
『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、
断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、
本当にそうだから、
しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。



人気のマンガ、
『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、
主人公の炭治郎(たんじろう)が、
修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、
「岩を切れ!」
というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、
炭治郎は、
とても、岩が、
刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、
炭治郎が、岩を切るために、
さまざまな苦心(くしん)で
努力をしている時に、
炭治郎の前に、
少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、
炭治郎に襲(おそ)いかかり、
それ以来、
二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、
とても強く、
炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、
その少年の剣士は、
鬼(おに)に殺された剣士の
幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、
鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、
登場して、
炭治郎に、さまざまな「知恵」を、
さずける。

炭治郎は、最後まで、
二人の剣士が、幽霊であることには、
気づかなかったが、
二人のおかげで、
成長していく。

やがて、
まったく歯が立たなかった少年剣士と、
互角(ごかく)に、
戦えるようになっていき、
鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、
つかんでいく。

そして、
炭治郎が、
初めて少年剣士に勝ったとき、
少年剣士は、
にっこり笑って、消えていく。


そのとき、
なぜだか、
岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、
なにか、すごい力(ちから)で、
岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、
そうは描かないで、
ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、
成長し、岩が切れたというのは、
とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、
思った。


思うに、
岩と、炭治郎だけだったら、
客観的(きゃっかんてき)にも、
岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、
二人の子供剣士の幽霊が、
加(くわ)わることによって、何かが生まれ、
人間の中にありながら、
人間の意識を超(こ)えた
『何か』の働きによって、
岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。
けれど、それを出すことは、
考えもしない。

たとえば、
思いもしない力(ちから)、
思いもしない可能性、
思いもしない希望、
思いもしない才能(さいのう)、
思いも及(およ)ばない知恵、


そして、
思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、
それを出すことのできる武器(ぶき)が、
実は、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、
ご本尊(ほんぞん)だと、
たとえることが、できます。


前の、
「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、
宿業を断ち切ることのできる、
マンガ・鬼滅の刃でいえば、
岩を切ることができる、
その、人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』が、
「南無妙法蓮華経」であり、
「ご本尊」であると言えば、
わかりやすいかもしれない。

また、
宿業を断ち切るためには、
「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、
鬼滅の刃の、
二人の幽霊剣士のような
役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、
納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、
『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』
という言葉を、使う。

「妙法」とは、
「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、
妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、
「妙法の利剣」でないと、
「宿業」という岩は、切ることができない。

それは、
鬼滅の刃の中で、
日輪刀(にちりんとう)という、
年中日光を浴びている
特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、
鬼を倒(たお)すことができないのと、
同じです。

普通の刀(かたな)で、
鬼を、どんなに切っても、
首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、
鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、
「宿業」を「鬼」にたとえるならば、
宿業という鬼は、
「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、
妙法の利剣、
すなわち、
「南無妙法蓮華経」でないと、
断ち切ることができない!
ということです。


それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
言えると思います。


※ちなみに、「ご本尊」とは、
仏(ほとけ)の生命そのものを、
目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、
同時に、自分の生命そのものを、
表現したものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

話しは違(ちが)いますが、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
このようなことを、
言っていました。


「絶対強盛(ぜったいごうじょう)な
信心(創価学会の信心)とは、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、
「おかあちゃーん」と
母親のところへ飛(と)んでいくようなものです。


その気持ちで御本尊(ごほんぞん)に願ったら、
すごいことになります。


これは理論(りろん)ではありません。
信心(しんじん)です。

母親のところへ、
死にものぐるいというか、
純粋(じゅんすい)というか、
それ以外にないのだと言う、
その一念(いちねん)で
御本尊に直結(ちょっけつ)し、
願っていけば、
どんなことも通じます。


その祈りは、かないます。


それが信心の究極(きゅうきょく)です。」


何を言いたいかというと、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰が、
どれだけスゴイか・・!

ということです。


本当に信じ、
本気(ほんき)で実践していった時、
どれだけ素晴らしい、
どれだけスゴイ結果(けっか)が生まれるか!

ということです。


そして、どれだけ幸せになっていけるか!


ということです。


だから、世の中の環境や状況にだまされてはいけない!!


創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の可能性は、
無限大(むげんだい)なのだから。


創価学会二代会長の
戸田城聖先生は、言われた。


「人生は、強気でいけ!!!」


世の中は、世界は、
良く言えば、
愛情や善意(ぜんい)に満(み)ちている。

逆(ぎゃく)に、悪く言えば、
悪意やマイナスのエネルギーが
充満(じゅうまん)しているとも
言えます。


そして、時として、
そのマイナスのエネルギーが、
自分に襲(おそ)いかかってくることもある。

さまざまな環境や状況、
人間模様(にんげんもよう)や
自分に降(ふ)りかかってきた運命が、
自分を、
押しつぶそうとする時もある。


けれど、戸田先生は言われた。


「人生は強気でいけ!!」


そして、
強気でいけるだけの
絶対的な確証(かくしょう)であり、
力(ちから)が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。


そして、決然(けつぜん)と、
その創価学会の仏法の信仰(しんこう)に
立ち上がった時、
世界の善意のエネルギー、
幸せのエネルギーが、
自分のもとに集まってくる。

自分の世界が、
善意や愛情に満ちた世界に
変わっていく。

それは・・、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペの世界が、
不幸から、幸せと平和の世界に、
変わっていったように。


そう、言えると思います。


だから、周(まわ)りがどうであれ、
状況がどうであれ、
それらの環境に、だまされてはいけない!!


なぜなら、
幸せになるか、ならいなかを決めるのは
自分自身なのだから・・・!


そして、
自分自身で幸せを切り開いていける、
自分自身で悩みを解決していける、
夢や希望をかなえていける、
決定的で最強無敵(さいきょうむてき)の
武器(ぶき)であり力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


それは、あたかも、
マンガ・鬼滅の刃の中で、
炭治郎が、
岩を、切ったように・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


共通テーマ:日記・雑感

こころの音203

ディズニーのアニメで、
「シュガー・ラッシュ」という映画があります。

この物語は、
ゲームの世界のキャラクターを
擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で
動いているキャラクターが、
いかにもその時間、
働いて生活しているような
構成(こうせい)になっています。

その中でヒロインとして登場するのが、
少女ヴァネロペです。

ヴァネロペは、
お菓子の世界に存在(そんざい)し、
その世界では少女たちがカーレースで
勝敗を競(きそ)っている。

簡単(かんたん)に言えば、
ゲームセンターのカーレースの
ゲームの世界に生きているという
設定(せってい)です。


けれど、ヴァネロペには
不具合(ふぐあい)がある!!


コンピューターでよく言う

「バグ」

ということでしょうか・・。

ヴァネロペは、
そのゲームの世界の不具合であり、
マイナスの存在だと
扱(あつか)われている。

そのために、ヴァネロペは、
他の人たちから「のけ者」にされ、
カーレースに出ることもできない。

みんなから、蔑(さげす)まれ
嫌(きら)われる存在として生きている。


ある時、
別のゲームの世界から
迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で
そのヴァネロペと出会う。

そして、ラルフが持ってきた
メダルによって、
ヴァネロペは
カーレースの出場の権利(けんり)を得る。

しかし、お菓子の世界の王は、
なぜだか、
執拗(しつよう)にヴァネロペの
レースへの出場を阻(はば)もうとする。

ヴァネロペには「不具合」、
バグがあり、
彼女がカーレースに出場すれは、
このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、
壊(こわ)れてしまい、
このカーレースのゲーム機自体が
廃棄(はいき)され、
お菓子の世界の住民、
そしてヴァネロペ自体も不幸になる!

というのが表向(おもてむ)きの理由です。


けれど、実は、別の理由があった。


ヴァネロペは
王の妨害(ぼうがい)によって、
窮地(きゅうち)に追い込まれるが、
決して屈(くっ)しない勇気と行動、
そしてラルフの助けを得(え)て、
お菓子の国のカーレースに出場する。

ここでも、ヴァネロペを
ゴールにたどり着かせないように、
王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。


それは、なぜなのか???


実は、
「王」というのは偽(いつわ)りで、
その王の正体(しょうたい)は、
お菓子の国のゲームの世界を
乗っ取った、

悪(あ)しき「ウイルス」

だからです。

この「ウイルス」である
偽りの王によって、
お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによって
ヴァネロペは不具合となり、
この世界から
排除(はいじょ)された存在になっている。

ヴァネロペは、
実(じつ)は、
このお菓子の世界を
元の世界に復活(ふっかつ)される
重要な存在であり、
ヴァネロペがゴールした時、
この世界を復活させる

「何かが起こる!!」

ということです。

だから、ウイルスである「王」は、
ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。


しかし、
ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、
ウイルスである王は敗れ、消えていく。


そして、ヴァネロペは、
とうとうゴールにたどり着く!!


その時、
いままでウイルスである
王に支配されていた
お菓子の国のゲームの世界に、
劇的(げきてき)な変化がもたらされる。


ヴァネロペ自身も
劇的に変化し、
「女王」の姿(すがた)をあらわす。


実は、ヴァネロペは、
お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!


そして、ウイルスによって
記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、
女王に深く、お詫(わ)びをする。



考えてみると、
不具合により皆から嫌(きら)われ、
のけ者にされていたヴァネロペも、
女王であるヴァネロペも同じ人物です。


ヴァネロペは、
不具合で皆(みな)から嫌われ
のけ者にされている世界で、
そのまま生きていくこともできた。


けれど、
ヴァネロペは屈(くっ)せず、
あきらめず、
希望と勇気と挑戦によって、
自分のいる世界を、
自分が女王として
堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。


人間も同じなのではないだろうか・・・!


仮(かり)に、
今、自分がいる環境が、
不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。

けれどその環境(かんきょう)は、
アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、
偽りの世界であり、
ウイルスによって支配された
環境だと考えることはできないだろうか・・・?


そう考えた時、
今、
自分が、
かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、
仮(かり)の姿であり、
偽(いつわ)りの姿だと
考えることはできないだろうか・・・?


そして、ヴァネロペのように、
希望と勇気と挑戦によって
道を切り開き
ゴールした時、
自分の世界が、
自分が、
王者のように輝(かがや)く
環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?


創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。

「一念三千」とは、
一念(いちねん)、
すなわち心(こころ)の違いによって
三千の違(ちが)う世界ができあがる!
という生命の法則です。


三千の心の違いによって、
未来の世界は、
それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。


自分の心によって、
世界が変わり、
自分の心に合った世界が、
そこに存在していくことになる。


ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、
人は三千の違う世界の中から、
自分の心で、
そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!
と、とらえることができます。

その三千の世界の中には、
ヴァネロペのように、
自分が、のけ者にされ、
蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている
世界もあるかもしれない。

また、
これもヴァネロペのように、
自分が女王、
あるいは王のように、
堂々と生きている世界もあるかもしれない。


一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、
自分の心によって選んでいる・・!!


と言えます。


楽観的(らっかんてき)に
ポジティプに考えれは、
人は、
未来の三千種類の世界の中から、
自分が行く世界を選ぶことができる!!
と、とらえることもできます。


それが、
生命における
『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。



確かに、未来はわからない・・・。

未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。


不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。


それを選び、
つかむことのできる法則が、
先程(さきほど)から話している
「一念三千の法則」ですが、
この、「一念三千の法則」を

いったい?
どうやって使っていくのか・・??

どうやって、
自分の人生に生かしていくのか?

そして、この「一念三千の法則」を
どうやって、ものにし、
人生を勝利していけるのか・・・?


それが、問題です。


実は、この「一念三千の法則」を
現実に動かし、
現実に結果を出し、
現実に幸せになっていける、
究極(きゅうきょく)の力であり方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


けれど、おそらく、
だれでも思うのではないか?
と思うのが、
いくら一念三千の法則を説(と)いても、
そんなものは、
単なる
机上(きじょう)の空論(くうろん)に
すぎないのではないか!
ということです。


問題は現実だからです。


現実を変えられなければ、何の意味もない。


現実の悩みを解決できなかったら、
そんなものは、
よくある言葉の遊びでしかない。

そして、現実の夢や希望を、
かなえていけなかったら、
いったい、
一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。


けれど、創価学会が実践(じっせん)している
南無妙法蓮華経を
となえる仏法の信仰(しんこう)は、
言葉の遊びではない!!


『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、
現実を変える、
ものすごい力(ちから)なんです。


南無妙法蓮華経は、
一念三千の法則を
現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。

幸せをつかむ究極の法則であり、
未来を幸せに変える
究極の力(ちから)が
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)を実践していった時、

自分の世界が、環境が、
大きく変わっていく。

自分自身の境涯(きょうがい)が
大きく変わっていく。

そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!



昔、
アンドレイ・タルコフスキー監督の
『惑星(わくせい)ソラリス』
という映画を見ました。

その世界では、
自分が深く思い願っている存在が、
現実の姿(すがた)をして、
具現化(ぐげんか)され、
あらわれてきてしまう。

すでに自殺して亡(な)くなり、
いるはずのない妻(つま)が具現化し、
さまよい、
主人公は苦しむ。

その果(は)てに、
自分が子供のころから、
愛してやまない故郷(こきょう)、
地球の、
我(わ)が家と家族、
その土地と自然が、
惑星ソラリスから、
出現(しゅつげん)してしまう・・・。


この物語は、
SFの架空(かくう)の物語ですが、
人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、
具現化していく力(ちから)が、
あると思う。


人は、
自分の夢や希望、
願いを、
現実に、
実現してきた・・。

それは、
人間のこころには、
夢や希望を、
実現していく力が、

『ある!!』

ということです。

そして、その、
人間の『こころ』の力が、
明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、
かなっていく・・・!!

しかし、その
「こころの力」が、
不明瞭(ふめいりょう)で、
さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、
発揮されなくなってしまっている。

そのために、
さまざまな苦しみや悩みが
生(しょう)じて、
人は、
不幸に沈(しず)んでいく・・・。

そう、言えると思います。


しかし、
「こころ」における、
さまざまな障害や不純物が、
取り除(のぞ)かれたならば、
「こころ」は、
力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、
夢や希望が、かなっていく。


それが、
「こころの力」ではないかと、
思われる。

そして、
「こころ」から、
障害や不純物を取り除き、
こころの力を、
無限大に発揮していく力が、
さきほど話した、

「南無妙法蓮華経」

です。

そして、
南無妙法蓮華経の力によって
解放(かいほう)された、
「こころの力」によって、
惑星ソラリスのように、
幸せの世界が出現してくる。

ヴァネロペのように、
貧(まず)しい姿から、
女王の姿を、あらわす。

それが、
南無妙法蓮華経であり、
南無妙法蓮華経を、となえることだと、
思います。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

昔、創価学会は、
貧乏人と病人の集まりだと言われた。

その人たちが、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を
実践することによって、
どうなっていったかといえば、
貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、
病人は健康になっていった。

そして、ことごとく
創価学会の人たちは、
幸せになり、人生を勝利していった。

それは、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
自分が、のけ者にされ
蔑(さげす)まれている世界にいた
ヴァネロペが、
女王となり、
その世界を幸せに変えていったのに
似(に)ている。


そういう変化を、
現実のうえで可能にしてきたのが、
創価学会だとも言えます。


いまでは、
創価学会は世界192カ国に広がり、
その世界中の人たちの悩みを解決し、
夢や希望をかなえる
大きな大きな力となって、
その人たちの環境を変え、
自分を変え、
その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。


たとえば、
道が何本にも分かれた
分岐点(ぶんきてん)があるとする。

そして、その道の先(さき)に何があるか、
すべて見えているとします。

そうしたならば、
人は、
わざわざ自分が
不幸になる道を進みはしない。


自分が行きたい道、
自分が幸せになる道、
自分が勝利していける道を
進むでしょう。


ところが、
人は人生の道の先に、
何があるか、わからない・・。

だから、
途方(とほう)にくれたり、
あきらめたり、
絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。


そして、敗れていく人も多くいる・・・。


創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
いくつも分かれた道の先に、
何があるのか、
見えているのに似(に)ている。

見えていれば、
幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。

そして自分の夢や希望を
かなえて勝利していける。


そういう生き方ができるのが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。


もちろん、
幸せになっていくために、
さまざまな努力、
挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。

また、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の
ヴァネロペのように、
それを妨(さまた)げる、
さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。

ある意味、
幸せにさせまいとする、
さまざまな勢力(せいりょく)が
自分の前に立ちはだかることも
あるかもしれません。

けれど、
ヴァネロペのように、
希望を持ち続け、
勇気と挑戦によって
立ちはだかる苦難(くなん)を、
乗り越えていったとき、
必ず幸せになっていけるのが
創価学会の信心です。

また、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を
実践していくことによって、
自分の中から自然(しぜん)に、
その「勇気」と「希望」を
湧(わ)き上がらせていくことができる!!

その、自分の中から
湧(わ)きあがってきた
勇気と希望によって、
どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え
勝利していけるようになっていく!!

その大元(おおもと)のエネルギーが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
環境とか境遇(きょうぐう)とか、
運命とか宿命とか、
それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の
上にある力(ちから)であり法則だと
言えます。

運命や宿命(しゅくめい)、
軋轢(あつれき)や障害の、
『上』にある力であるがゆえに、
悩みや困難(こんなん)を乗り越え、
夢や希望を、かなえていく
力(ちから)が、ある!!
ということです。

それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。


たとえば、
話しのよくわかる、
良い社長がいたとします。

会社内に、さまざまの問題があり、
ある社員が悩(なや)んでいる。

同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、
さまざまな思惑(おもわく)や
軋轢(あつれき)があって、
まったく解決しない。

けれど、その話しのよくわかる、
良い社長に話し、
訴(うった)えていったなら、
希望や要望(ようぼう)が
かなっていく可能性が高い。

今度は、ブラック企業(きぎょう)で、
社長も、頑固(がんこ)で、
話しのわからない社長だったとする。

けれど、その国の王がいて、
その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、
善良(ぜんりょう)な王だったとする。

その優秀な国の王に、
問題を訴え、伝えることができたなら、
国が動き、
ブラック企業の問題が解決できる
可能性(かのうせい)もでてくる。

こんどは、国の王も、
暴君(ぼうくん)で、
どうしようもないような王だとする。

しかしその国の王の上には、
「宇宙(うちゅう)の王」がいて、
その宇宙の王は、
大変、優秀で、
ものわかりの良い、
素晴(すば)らしい王様だったとする。

宇宙の王から見れば、
地球の一国の王など、
小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。

だから、
その素晴らしい宇宙の王に
話しを伝え、訴えることができたなら、
宇宙の王が動き、
暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、
民衆の希望や願いが、
かなっていく可能性も強くなる。

その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。

だから、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
願いや祈りを、
宇宙の王に伝え、訴えることになり、
宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、
考えることができます。

宇宙の王に訴え、
宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、
かなわないわけがない!!!

宇宙の王は、
地球のちっぽけな王とは
比(くら)べものにならないほど
広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、
考えられます。

その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、
さまざまな悩みや問題も、
悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、
思われる。

それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことだと、
たとえることができます。



ヴァネロペは、あきらめなかった。

絶対に負(ま)けなかった。

絶対に希望を捨てなかった。

それと同じように、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を
湧(わ)き上がらせていくことができる。

その「生命力」は、
強い強い「心(こころ)」、
希望の心、
幸せの心となって、
その人の人生を開花(かいか)していく。

その生命力、
強い強い心は、
悩みを解決し、
困難を乗り越えさせ、
夢や希望をかなえる
力(ちから)となっていく。

さきほど話した、
「一念三千の法則」によれば、
その強い強い心、
幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。


自分にとって
希望に満(み)ちた世界に
変わっていく・・・!


それが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。


それはあたかも、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
虐(しいた)げられ、
のけ者にされている世界から、
自分が女王となり、
堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、
変えていったように・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


共通テーマ:日記・雑感

こころの音202

「シュタインズ・ゲート」という
アニメがあります。

この「シュタインズ・ゲート」という物語は、
映画やドラマ、アニメなどでは
よくある、
「タイムマシン」を題材にした話しですが、
携帯電話を使って、
過去にメールを送るというのが、
斬新(ざんしん)かもしれない。

主人公の岡部は、
ひょんなことから、
過去にメールが送れる
装置(そうち)を発明する。

しかし、過去にメールを送るたびに、
過去が変わり、
そのことによって現在も大きく変わる。
その繰(く)り返しの中、
最終的には、
取り返しのつかない大変なことに
なってしまうという、物語です。

たった一通(いっつう)のメールであったとしても、
過去にメールが送れるとしたら、
ひとりの人生、
あるいは世界を、
大きく変えることになってしまう。


場合によっては、
人の生死を変えることすら
可能となってしまう。


その繰(く)り返しの中、
世界が大きく変わり、
大きな事件をもたらす結果となってしまう。

このアニメの中では、このように説明している。

ひとつの人生、
あるいはひとつの運命、
ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに
形成(けいせい)された世界を、
ひとつの『世界線(せかいせん)』
ととらえる。

人間の人生、世界の成り行きを、
ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると
考えるわけです。

ところが、タイムマシンを使い、
過去に行って、
Aという人を殺したとする。

そうすると、その世界は、
今まで、Aという人間が
存在する「世界線」であったものが、
Aという人間が存在しない、
別の世界線へと移動する。


「世界線」が変わるわけです。


そうすると世界の歴史や、
さまざまな人間の人生までも
変わってしまう。

そう、とらえています。

そして、そのことを

『世界線が変わる』

と表現しています。


主人公の岡部が、
過去にメールを送ることによって、
その「世界線」が変わり、
その繰り返しの中、
とんでもない事件に巻(ま)き込まれる
ということです。

やがて岡部は、
仲間とともに、
メールではなく、
人間の記憶(きおく)を
過去に送る装置(そうち)を開発する。

肉体は無理でも
記憶を過去に送ることができれば、
ほとんどタイムマシンと
同じようなことができるということです。

そのことを、このアニメでは、
「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」
と表現しています。

そして、その装置をめぐり、
岡部の幼(おさな)なじみである、
マユリが殺されてしまう。

岡部は、マユリを助けるために、
タイムリープ・マシンを使い、
過去へと戻(もど)り、
マユリを救(すく)おうとする。

マユリを逃がし、
別の場所へと逃避(とうひ)する。

しかし、なぜだか、
同じ時刻になると、
マユリは殺されてしまった。

そして、岡部は、
そのたびにタイムリープを繰り返し、
過去に戻るが、
どんな手をつかっても、
どんな場所に逃げても、
暗殺者に殺されなかったとしても、
暗殺者が現(あらわ)れなくても、
マユリは同じ時刻になると、
必ず死んでしまった。


まるで、運命に殺されるかのように・・・。


このアニメの中では、このように説明しています。

一本のロープを
天井に吊(つ)るしたとする。

一本のロープは、一見(いっけん)、
一本に見えるけれども、
実際は、細い糸が何本も何本も
重(かさ)なって、一本のロープを
形成(けいせい)している。

その一本一本の細い糸が、
『世界線』だというのです。

一本一本の細い糸は、
それぞれが独立(どくりつ)した
糸ではあるけれど、
それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、
必ず、天井に吊るした
到達点である『一点』にたどり着く。

一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、
かりに「世界線」が違ったとしても、
最終的には、
同じロープの到達点、
「一点」にたどり着いてしまう。

すなわち、最終的な結果を
変えることは、できない!
ということです。

ゆえに、岡部が過去に戻り、
どんなにマユリを助け、
行動を変えても、
最終的な到達点である
「マユリの死」を変えることができない・・・!


このような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命(しゅくめい)のようなものを、
創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、
『宿業(しゅくごう)』といいますが、
小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、
どんなにお金を使っても、
ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、
変えられないのが、
悪(あ)しき運命といえる
『宿業(しゅくごう)』です。

では、宿命とも宿業ともいえる、
「マユリの死」を、
どうやって回避(かいひ)し、
変えていくのか・・・?

このアニメでは、こう説明している。

たとえ過去に戻り、
世界線を変えたとしても、
その世界線が、
一本のロープのような
一点の結果に向かう世界線であるならば、
結果を変えることはできない・・!

宿命とも運命ともいえる、
その変えられない結果を変えるためには、
一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、
別の違うロープに束ねられた世界線に
移動するような
大きな変化をもたらさなければならない。

すなわち、別の、もう一本のロープに
飛び移(うつ)るような、
大きな、
劇的(げきてき)な変化が
必要となる。

その大きな劇的な変革(へんかく)を
成し遂(と)げないかぎり、
「マユリの死」という
結果を変えることは、できないと・・。

そして、その劇的な変化を起こすために、
この物語は
展開(てんかい)されていくわけです。


かりに、世界線という運命の糸を、
少し変えることができたとしても、
その到達点である
結果を変えることは、できない・・・。

先ほど言ったように、
このようなどうしても変えられない
悪(あ)しき宿命を、
宿業(しゅくごう)と言いますが、
この「宿業」を打ち破(やぶ)り、
変えないかぎりは、
未来は開けない。

人は、この宿業があるから、
苦しみ、敗れ、
不幸に沈(しず)んでいく・・
と言えます。

そして、その宿命を変えるためには、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに飛び移るような、
劇的な変革が必要となる・・・!


実はその、
世界線の集まった、
宿業という結果を変えられない
一本のロープから、
宿業を打ち破り宿命を変えることのできる
別の世界線のロープに
飛び移るようなことを可能にする、
唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、
創価学会(そうかがっかい)が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
その仏法の実践活動である
創価学会の活動なんです。

南無妙法蓮華経とは、
南無妙法蓮華経という
法則(ほうそく)であり力とは、
この宿業を打ち破り変えることのできる
力(ちから)であり、
法則だと、
言えます。

創価学会の人たちは、
その
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』
を実践しているから、
幸せになっていけるんです。

どうしても変えられなかった
宿業を打ち破り、
宿命を転換(てんかん)して、
幸せをつかんでいけるんです。

そして、そういう偉業(いぎょう)を
創価学会のひとりひとりが、
ことごとく!
やってきたのが、
創価学会の歴史です。

だから、創価学会は
発展しているのであり、
世界192カ国に広がっているんです。


別に、タイムマシンがなくても、
世界を、
平和に、幸福に、変え、
ひとりひとりの悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
最高の幸せをつかませてきたのが、
創価学会です・・・。

あえて例(たと)えるならば、
このアニメでいう、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに
飛び移るような変化を、
現実の世界で実現してきたのが、
創価学会だと
言うこともできます。

また、それを可能にするのが、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

このアニメでは、
過去を変えることによって、
未来を変えていった。

けれど、未来を変えるのだったら、
別に、
過去を変える必要はない・・。


すなわち、「今」を変えればいいわけです。


そして、その「今」を劇的に変えていく、
究極(きゅうきょく)にして最大の力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


創価学会が実践している、
その「仏法(ぶっぽう)」では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則を、
説いています。

『一念三千』とは、
心の違(ちが)いによって、
違う三千の世界ができあがる!
という生命の法則です。

どういうことかというと、
もし、本当に
「こころ」を変えることができたとしたら、
その人の世界は
変わっていく!!
ということです。

そしてその「こころ」を
本源的(ほんげんてき)に、
本当に変えていける
唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、
創価学会の人たちがとなえている
『南無妙法蓮華経』です。

その南無妙法蓮華経をとなえているから、
創価学会の人たちは、
心を変え、
そのことによって自分の世界を変え、
不幸から幸せへ、
絶望から希望へと、
人生と未来を変えていけるわけです。


このアニメの物語は、
架空(かくう)の物語であり、
ありえない話しです。

けれど、仏法で説く
「一念三千」の法則の、
説明に利用することは、
可能です。

創価学会の人たちが、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経をとえなえていく時、
南無妙法蓮華経とは、
生命を、心を、
本源(ほんげん)から
劇的に変革していく力なので、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
その人の「こころ」が、
パッと変わる。

簡単に言えば、
不幸だった心が、
幸せに変わるわけです。

一念三千の法則から言えば、
こころが変わるということは、
その人の世界が変わる!
ということです。

シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、
『世界線』が変わる!
わけです。

心が変わることによって、
いままで不幸なる世界線にいたものが、
別の、
幸せをもたらす世界線に
変わる!わけです。

かりに、
その変化が最初は目だたない、
ごくわずかの違いだったとします。

けれどそれでも、
最初にいた不幸なる世界線には、
その人はもう、いない!
と考えられます。

こころが変わったことによって、
その人の世界が変わり、
世界線が変わったと考えるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、
また創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
信仰をやっていくことによって、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。

その時点でまた
世界線を移動し、
「世界線」が変わるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、
また南無妙法蓮華経をとなえていった時、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
そしてまた世界線が変わっていく。

幸せの方向へ、
幸せの方向へ、
どんどん世界線を移動していくと、
考えることができます。

そして、その人のいる世界線は、
どんどん分岐(ぶんき)していき、
最初にいた
「不幸なる世界線」とは、
遥(はる)かにかけはなれた
『大いなる幸せの世界線』
に移動している!!と、
とらえることができます。


だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、
かけ離れた、
素晴らしい幸せを
つかんでいけるわけです。

そして、そういう変化を
現実の上で可能にするのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。


そして、最も重要なことは、
この、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』
の信仰は、
宿命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
唯一(ゆいいつ)の方法だと
いうことです。


ゆえに、
どうしても変えることのできない
宿命、宿業(しゅくごう)が
立ちふさがったとしても、
シュタインズ・ゲートの中で言う、
一本の、宿命を変えられない
世界線のロープから、
運命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
別の世界線のロープに
飛び移るような
劇的な変革を、
もたらすことができる。

そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、
新(あら)たな、
最高の幸せと勝利を、
つかんでいける!!


創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』
『人間革命』を、
可能にするわけです。


それはあたかも・・、
アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、
主人公たちが、
マユリを死から救うために、
世界線を大きく変える、
劇的な変革を、
もたらしていったように・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・


共通テーマ:日記・雑感

こころの音201

先日から話していますが、
漫画界の巨匠(きょしょう)、
手塚治虫氏の作品で、
「ブッダ」というマンガがあります。

その中で、親を殺した、
悪名高いアジャセ王が登場する。

親を殺した後、
アジャセ王の頭に腫れ物(はれもの)ができ、
その腫れ物はどんどん大きくなり、
アジャセ王は苦しむ。

治(なお)すための治療(ちりょう)方法も見つからず、
医者も途方(とほう)にくれるなか、
ブッダは、

「ためしてみる!」

と言い、
ブッダ独特(どくとく)の治療を始める。

そしてその治療を一日12時間、
三年間も続けた。

そしてブッダの治療は功(こう)を奏(そう)し、
アジャセ王の病気は
回復(かいふく)に向かう。

そんな中、
ブッダを嫌(きら)い
憎んできたはずのアジャセ王が、
ブッダに向かって、
感謝のまなざしで

「ニコッ」

と微笑(ほほえ)む。


ブッダは喜ぶ!!

「王がはじめてほほえまれた!」

「かいがあった・・」

「あの微笑みは・・・
まるで・・・・・
神のようだった!!」

「・・・、
神・・・・
神だって!?」

「なんたることだ!?
神・・・・・」

「わかったぞ!
そうだ!
わかったぞ~~っ!」

「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・
神が宿(やど)っているんだ!!!」


ブッダは喜びのあまり、
走りつづけ、さけびつづけた!

「私はアジャセ王の微笑みに
神のような美しさを見つけました!!」

「修行僧(しゅぎょうそう)でもない、
聖者(せいじゃ)でもない、
ふつうの人間です!!」

「神というのは
だれの心にも宿っているのですな!?
だれでも神になれるのですね!?
そうでしょう?」

「私はいままで、
きびしい修行をして聖者になることを、
弟子たちに教えてきました。」

「そうじゃない!
そうじゃないんだ!!
聖者どころか、
神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」



マンガとはいえ、
鋭(するど)いと思います。

神というと大げさかもしれないけれど、
アジャセ王の微笑みに
神を見たと言っているので、
その「神」というのは
大げさな超人的(ちょうじんてき)なものではなく、
人間性に直結(ちょっけつ)するもの、
より人間らしいもの、
人間性の究極(きゅうきょく)、
人間の中にある
「大いなる尊厳(そんげん)」
のようなものなんだと思う。

その「大いなる尊厳」
「人間性の究極」のようなものが、
すべての人の中に、
そなわっている・・・!!!


そのようなことを
言いたかったのではないか? 
と思う。


そしてその、神のような生命は、
実は、
すべての人の中に
そなわっている!!


実は、ここに、
仏法(ぶっぽう)の
優(すぐ)れた思想と哲学(てつがく)がある。

神のような生命というと、
わかりづらいかもしれませんが、
幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力(ちから)と考えると、
わかりやすいかもしれない。

幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力は、
元々(もともと)、
すべての人の中に、そなわっている!

その元々そなわっている無限の力を、
引き出せるのが、
『仏法(ぶっぽう)』だということです。


ここに重要なポイントがあります・・!


すなわち、幸せをもたらす無限の力は、
自分の外にあるものではない。

「自分の中にある!!!」


このように、
幸せを自分の外に求めるのではなく、
自分の中に求める生き方を、
『内道(ないどう)』
といいます。

「内(うち)」に幸せを求める「道」
ということです。


それに対して、
自分の外に幸せを求めることを
『外道(げどう)』
といいます。

地位や権力(けんりょく)、
お金や世間の評判(ひょうばん)など、
自分の外にあるものによって
幸せになろうとする生き方が、
「外道」の生き方だと言えます。

環境がこうだから幸せになれない。
あの人がこうだから幸せになれない・・・と、
幸せになれない理由を、
自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方も、
『外道(げどう)』の考え方であり
生き方だと言えます。


そして、「外道」の典型(てんけい)と言える宗教が、
実は「キリスト教」です。

キリスト教は、神という、
自分とは、かけ離れた存在に、
幸せを祈ります。

自分には幸せになる力(ちから)がないから、
神におすがりするということです。

自分には幸せになる力(ちから)がないから、
自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、
ひたすら、
おすがりして、ほどこしてもらう・・。

そういう意味合いが強くなっていきます。

けれど、ここには、
はっきり言って希望はありません。

神をあがめても、あがめても、
自分と神との距離は
永遠に縮(ちぢ)まることはなく、
神をあがめれば、あがめるほど、
逆に人間との距離がどんどん離れていく。

人間は、どんどん卑小(ひしょう)になり、
みじめな存在になっていく。

そして精神的には、
自分という存在(そんざい)が、
神の奴隷(どれい)のようになってしまいます。

この絶望(ぜつぼう)のドグマから
解放(かいほう)されることは永遠になく、
人間は救われない生き物だということに
なっていきます。


ここにキリスト教の限界(げんかい)があり、
キリスト教に疑問(ぎもん)をいだき、
キリスト教から離(はな)れていく人も
多いと思います・・。

また、キリスト教でなくても、
現代の日本の宗教、
葬式(そうしき)仏教や神社信仰、
観光宗教なども、
単(たん)なる「外道の宗教」でしかないと言っても、
おかしくないと思います。

正月などに、「パンパン」と手を合わせて、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを
祈る・・。

それこそ、
自分の外にあるものによって幸せを求める
典型(てんけい)だと思います。

葬式仏教などでは、
葬式で坊(ぼう)さんに高いお金を払って
お経(きょう)をあげてもらう。
それで亡くなった方が
成仏(じょうぶつ)するんだったら、
こんな簡単なことはないけれど、
そんなことはありません。


大切なことを、
人におまかせして祈ってもらう。
考えてみたら、おかしなことです。


一番大切な幸せを、
なにか外から降(ふ)ってわいてくるように、
神頼(かみだの)みしてみたところで、
それで幸せになれるとは考えられません。

それどころか、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教それ自体(じたい)が、
実際、デタラメな間違(まち)った宗教であるために、
それにおすがりして祈るということは、
間違ったもの、デタラメなものに、
おすがりすることになり、
その人を不幸にしてしまう・・。

どういうことかというと、
間違ったデタラメな宗教に祈るということは、
間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生を
ささげることになります。

間違ったデタラメの宗教に
人生と生命をささげたならば、
当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、
デタラメで間違ったものになっていく。

自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな形で
不幸がもたらされてしまう!
ということです。


不幸の根源(こんげん)には、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教など、
それらの間違った宗教がある!
ということです。




手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。

「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・」

「神というのは、だれの心にも宿っている!」

「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」


神というと、やはり少し大げさで、
取っ付(とっつ)きづらい感じがしますが、
「神」という言葉を、
「幸せ」「幸せをつかむ無限の力」
に置き換(おきか)えると、
わかりやすいと思う。

「人間の中にこそ・・・
幸せをつかむ無限の力がある・・・」

「幸せをつかむ無限の力は
だれの心にも宿っている!」

「幸せには・・・
だれでもなれるんだ!!!」

そう言い換(か)えると、
わかりやすいと思います。


そして、その通り、

『幸せには、だれでもなれる!!』

その力が、人間の中には、
元々(もともと)、そなわっている。


問題は、その幸せになる力を、
引き出せるか、
出せないかにかかっている!
ということです。


では、その幸せになるための無限の力を、
どうやって引き出すのか・・・?

実は、ここに仏法(ぶっぽう)の命題があり、
その究極のメッセージを伝えたのが
「ブッダ」すなわち「釈尊(しゃくそん)」
だと言うこともできます。

そして、その釈尊の究極のメッセージを、
唯一(ゆいいつ)正しく汲(く)み取り
理解し、広めたのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。


その日蓮大聖人が発見し広めた、
釈尊の究極のメッセージとは何か・・・?


実はそれが、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」
なんです。

そしてその「南無妙法蓮華経」が、
人間の中に元々そなわっている、
幸せになる無限の力を引き出す、
究極の力であり
法則(ほうそく)だと言えます。

だから南無妙法蓮華経とは、
人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す
『秘宝(ひほう)』
だと言えます。

幸せになるためにロックを解除(かいじょ)する、
パスワードだと考えると、
わかりやすいと思います。

そして、その人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す方法が、
『南無妙法蓮華経をとなえる!!』
ということです。

だから、南無妙法蓮華経をとなえていった時、
自分の中から幸せになるための
無限の力を引き出すことができ、
そのことによって、
悩みを解決できたり、
困難(こんなん)を乗り越えることができたり、
夢や希望をかなえていくことが
できたりするわけです。

そしてそれが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる
という仏法の信仰です。

また、
仏法の神髄(しんずい)である
『南無妙法蓮華経』を
唯一(ゆいいつ)正しく把握(はあく)し、
その南無妙法蓮華経の仏法を
正しく実践(じっせん)しているのが、
『創価学会』だということもできます。

それゆえに、
創価学会は世界192カ国に広がり、
世界中の人の悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
その人たちに幸せと勝利をもたらしている・・・!


そう言えると思います。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。

「神というのは、だれの心にも宿っているのですな!
だれでも神になれるのですね!」

「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」


それは、人間性の勝利を
意味していると思います。

人間の中にある尊厳(そんげん)の勝利!

人間という生命の勝利!!

その人間の勝利の凱歌(がいか)である叫(さけ)びが、
マンガ・ブッダの言葉だと思う。

そして、その人間の中にある
尊厳の勝利、
人間の中にある生命の勝利は、
人間を開花させる
具体的なエネルギーとなっていく。

すなわち、
人間の中の尊厳の力、
生命の力が、
悩みや問題を解決する力となり
エネルギーとなっていく。

また、人間の中にある尊厳の力、
生命の力は、
夢や希望をかなえる
大きな大きなエネルキーとなっていく。

そして現実に、
悩みや問題を解決でき、
夢や希望をかなえていくことができる。


なぜなら、
幸せになるための無限の力は、

「自分の中にある!!!」

からです。


そして、自分の中にある
幸せの力に目覚(めざ)め、
その力を引き出していったならば、
その人は当然、
幸せになり、
勝利していく。


それが、創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の
仏法(ぶっぽう)の法則であり、
その幸せの法則通りに実践しているから、
創価学会の人たちは
幸せになっていけるわけです。



幸せには、だれでもなれる・・!


幸せになるための無限の力は、
人間の中にある!!


マンガ・ブッダの中で、
ブッダがそのことを発見し、
大地を走り、
大きな大きな歓喜(かんき)を味わったように、
その「幸せになるための無限の力」である
『南無妙法蓮華経』をとなえていった時、
その人の生命は歓喜する!!
その人の生命は高揚(こうよう)する!!

その歓喜は、
生命を開花させる喜びであり、
幸せをつかむ感動であり、
勝利をもたらす
巨大なエネルギーになっていく。

そして、悩みや問題を解決し、
夢や希望を
かなえていけるようになっていく!!!


それが、ブッダ、
すなわち釈尊(しゃくそん)が伝えたかった
『南無妙法蓮華経』であり、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと
いうことです・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音200

先日、話しましたが、
漫画界の巨匠(きょしょう)、
手塚治虫氏の作品に、
「ブッダ」というマンガがあります。

その中で、アヒンサーという人物が登場する。

アヒンサーは高貴(こうき)な貴族の身分であったが、
悪い坊主(ぼうず)に、
100人の人を殺すように
催眠術(さいみんじゅつ)をかけられる。

そして毎夜、人を殺し続ける。

最後、100人目に殺そうとした相手が
自分の母で、
その時、我(われ)にかえるが、
すでに遅(おそ)く、
その後、世の中から罪人(ざいにん)として
手配(てはい)される大悪人となっていく。


そしてアヒンサーはすべてを憎み、
ブッダを何度も殺そうとする・・。


しかし、ブッダを殺すことに失敗し、
自分が穴(あな)に落ち、
閉(と)じ込められ、
外に出ることができない。

閉じ込められた穴の空間の空気が
徐々(じょじょ)になくなり、
アヒンサーの死が近づいていく。

アヒンサーは、
死を恐(おそ)れ、苦しむ。

穴の外から声をかけることは可能だったため、
ブッダはアヒンサーに語りかける。

「おまえはいままでに、
何百人も殺したという・・。
だが、一度くらい、
なさけをかけてやったことはないか?」

アヒンサーは答える。

「あ・・・ある。
あかん坊(ぼう)だっ。
ひとり見逃(みのが)してやった!

あんまりかわいかったからからな。
殺さなかったんだ・・・・・」

ブッダは言う。

「もしそうなら、それだけでおまえは、
大きな善(ぜん)をほどこしたのだ。

なぜなら、その子は無事(ぶじ)に育ち、
子孫(しそん)をふやすことができるだろう。」

アヒンサーは反発する。

「それがどうだってんだ・・・!」

ブッダは答える。

「かりにあと百年たって、
その子の子孫が百万人にふえ、
こういうだろう。」

「百年前、ある人間が命を助けてくれた、
そのおかげで、
こんなに栄(さか)えてるんだとね!」

「おまえはあがめられ、
その一族に永久にかたり伝えられる。」

アヒンサーは言う。

「お・・・おれがあがめられ・・・、
じょうだんじゃない!
おれは・・・
何百人も殺した殺人鬼(さんじんき)だぞっ!」

ブッダは言う。

「百人殺すのはよくない。
だがな、
ひとりを生きながらえさせるのは
尊(とうと)い。
百万人になるからな・・・・!」

「おまえはこれから
不思議(ふしぎ)な世界にいく。
そこには宇宙のあらゆる
霊(れい)が集まる。
そこで胸を張(は)って、
こういうがいい。

『おれは赤ん坊を助けたアヒンサーだ!』

とな・・!!」



わかりやすい譬(たと)えだと思う。

確かに「ひとり」を救うことは、
決してひとりには留(とど)まらない。

それは、あらゆるものに影響をもたらし、
環境(かんきょう)や世界、
人々を変えていくことにつながっていく。

確かに、その「ひとり」から
その子孫が何百万人にも
広がることもある。

「ひとり」は「ひとり」であるけれども、
その価値(かち)と可能性は
無限に広がる。

また、すべては
「ひとり」から始まるのであるから、
その「ひとり」をおろそかにしていけば、
未来は開けてこない。


すべては、「ひとり」から始まる。


だから、ひとりを救うこと、
ひとりを幸せにすることには、
計(はか)り知れない、
ものすごい価値がある・・!!


問題は、はたして、
その「ひとり」を
本当に救うことができるのかどうか・・。

その「ひとり」を
本当に幸せにすることが
できるかどうか!だと思う。

その「ひとり」を
本当に幸せにすることができたならば、
大きく言えば、
この世界を、
この環境を、
人類の未来を、
幸せへと
転換(てんかん)することになっていく。

人間における、
人類における、
ありとあらゆる問題も、
この「ひとり」を幸せにすることができたならば、
解決へと向かう。


そう表現しても、いいと思う・・。


そして・・・、
創価学会(そうかがっかい)がやっていることは、
実は、そういうことです・・!!!

ひとりを本当に幸せにしきっていく!
ひとりを根源(こんげん)から変革し、
幸せにする!!

それを現実の上でやってきたのが、
『創価学会』なんです。

だから、創価学会は、
ものすごいことをやってきているんです。

大きく言えば、
人類の幸せ、世界の平和、
それを現実の上で
着実(ちゃくじつ)に、
確実に世界にもたらしてきているのが、
実は『創価学会』だと言えます・・・。


世界の有識者たちは、
そのことがわかっているから、
創価学会に
最大の賞賛(しょうさん)と敬意(けいい)、
期待をたくしているんです。

そして、その「ひとり」を
幸せにしていける、
個々人の宿命(しゅくめい)を
転換(てんかん)していける、
決定的な方法が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


なにも、創価学会の人たちは、
宗教が好きで、
その仏法を
実践(じっせん)しているわけではない・・・。

ひとりひとりの悩みを解決していける、
ひとりひとりの夢や希望をかなえていける、
そして幸せになっていける、
決定的な方法だから、
この創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰をやっているんです。

また、それがそのまま、
世界の平和、
幸せへとつながっていく。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

創価学会インターナショナル会長の
池田先生が、言っています。

「今、世界は、
紛争(ふんそう)やテロ、
貧困(ひんこん)や格差(かくさ)、
自然災害や地球環境問題など、
幾多(いくた)の深い闇(やみ)に
覆(おおわ)われています。

だからこそ、私たちは、
いやまして、
英知(えいち)の炎(ほのお)を、
一人一人の生命に
赤々(あかあか)とともしていきたいと
思うのであります。

どんなに迂遠(うえん)に見えようとも、
これこそが、
人類の前途(ぜんと)を照らし
晴(は)らしていく
最も確実な道だからであります。」


確かに確信をついていると思います・・・!

一人を良くしていく。

一人の生命に希望を灯(とも)していく。

それは小さなことのようだけれども、
すべては、そこから始まる。

もし、一人を良くすることができなかったら、
世の中を良くすることなど、
到底(とうてい)できない。

世の中を、
おおざっぱな塊(かたまり)として見て、
ああだこうだ言ったところで、
何も変わっていかない。

けれど、一人を良くすることができたならば、
それは地域を、
世界を良くすることに
必ずつながっていく。

しかも、「幸せ」ということから考えたならば、
それは、
おのおのの生命の問題であるだけに、
深く、重い意味がある。

その生命における
「幸せ」を実現していくためには、
やはり・・、どうしても・・、
『ひとりの生命』に
たどり着かなければならない。

すなわち、
ひとりの生命を変えることができなかったら、
現実の上で、
「幸せ」も「平和」も
実現はできない。

その「ひとり」を、
ひとりの生命を、
現実に、
根源(こんげん)から変え、
より良くしていける力(ちから)が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

ひとりの人間を、
ひとりの人間の生命を、
本当の意味で変革(へんかく)していける力は、
この創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法しかないと言えます・・。

また、だから創価学会の人たちは、
幸せになっていけるんです・・。



創価学会のやっていることは、
幸せの拡大(かくだい)であり、
平和の拡大です。

それを可能にするために、
またそれを可能にする決定的な方法が、
南無妙法蓮華経をとえなる
仏法(ぶっぽう)の信仰であるがゆえに、
その仏法を実践(じっせん)しているわけです。


もう少し、掘(ほ)り下げて言うと、
この創価学会の仏法は、
単なる理屈(りくつ)ではないということです。

ああだ、こうだ、
理屈で良いことを言うのは、
いくらでもできる。

けれど、いくら、
ひとりを良くする、
ひとりの生命をより良く変革していくといっても、
そこに具体性(ぐたいせい)と
現実性がなかったら、
単なる言葉だけに終わってしまう。

すなわち、
現実に結果がでなかったら、
意味はない。

ひとりひとりに突(つ)きつけられた、
さまざまな悩みを解決できなかったら、
「絵にかいた餅(もち)」
になってしまう。

またひとりひとりの
切実(せつじつ)な夢や希望を
かなえていけなかったら、
なんの意味もない・・。


その悩みの解決、
夢や希望の実現が
現実に可能になるから、
創価学会の人たちは、
この南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰をやる!ということです。


そこに、創価学会の仏法(ぶっぽう)の
大前提(だいぜんてい)がある!!


現実を変えることができる!
悩みを解決でき、
夢や希望を
現実に実現できる!!!
ということです。


そして、
ひとりひとりの悩みの解決、
夢や希望の実現が、
現実にもたらされたならば、
それは必ず、幸せへとつながり、
家族や地域、
社会と世界を、
幸せに、平和にしていくことに
つながっていきます。

ひとりひとりの幸せと勝利が、
家族の勝利、
地域や社会の勝利、
そして世界の幸せと勝利へと、
連(つら)なっていく。



最初に話したように、
「ひとり」を幸せにすること・・・!
「ひとり」を救っていくことが、
どれだけ大切か・・!!

手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダが言ったように、

「ひとりは、百万人にもなっていく!」
「ひとりから、無限の希望が広がる!!」


その一人を
根源(こんげん)から救っていける、
本当に幸せにしていける、
決定的で唯一(ゆいいつ)の
方法と言っていいのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音199

漫画界の巨匠(きょしょう)、
手塚治虫氏の作品に、
「ブッダ」というマンガがあります。

ブッダとは知ってのとおり、
仏教の創始者(そうししゃ)です。

釈迦(しゃか)とも釈尊(しゃくそん)とも呼ばれています。

その「ブッダ」が主人公のマンガなので、
堅苦(かたくる)しいというか、
おもしろくないマンガのように思うかもしれませんが、
それはそれ・・!
さすが手塚治虫で、
いいマンガ、おもしろいマンガが、
みな、そうであるように、
読んでいるうちに、
その世界に引き込まれてしまいます。

やはり魅力(みりょく)は、
巨匠・手塚治虫が創(つく)り出す、
創造的(そうぞうてき)な、
さまざまなキャラクターだと思います。


奴隷(どれい)の身分でありながら、
その身分を隠(かく)し、
将軍の養子(ようし)となり、
のし上がろうとするチャプラ、

そのチャプラも、やがて、
奴隷であることが暴(あば)かれ、
母親と一緒に串刺(くしざ)しにされて、
死んでいく。

自分のこころ(精神)を、
動物に乗り移(うつ)らせて、
動物として行動することのできる、
不思議(ふしぎ)な少年、タッタ。

そのタッタは、
親友であるチャプラと、
親のように自分を育ててくれた、
チャプラの母を殺され、
その王国に対する復讐(ふくしゅう)を誓(ちか)う。

ブッダが国の王子であった時代、
身分をわきまえず、
そのブッダを好きになり、
愛してしまったために、
そのブッダの父であり国王に、
ブッダの結婚の邪魔(じゃま)になると、
両目をつぶされてしまう女性、
ミゲーラ。

契約(けいやく)により、
大蛇(だいじゃ)の魔物の子供となった、
アナンダは、
どんなに刺(さ)されても切られても、
必ず蘇生(そせい)してしまう、
不死身(ふじみ)の身体(からだ)を持つ。

そのアナンダは、
大蛇の魔物(まもの)と共に、
ブッダの命を狙(ねら)う。

しかしアナンダの不死身の能力も、
人を好きになったり愛したりすると、
無くなってしまう・・。
アナンダの運命は・・・。

大悪人、ダイバダッタも登場しますが、
なんとも言えない悪人に仕上(しあ)げています。
けれど、ダイバダッタの、
出生(しゅっせい)から幼少時代の物語を描くことによって、
そのダイバダッタの中にも、
人間性や愛情があることを、
かもしだしています。


読み終わって感じたことは、
この手塚治虫のブッダのマンガの中に出てくる、
数え切れない人々、
理不尽(りふじん)に虐(しいた)げられ、
死んでいった人々。

宿命(しゅくめい)にもがき、
泣きながらも、
精一杯(せいいっぱい)生きようとした人々。

その登場人物たちの生命が、
なぜだか、自分を、
励(はげ)ましてくれているような感覚(かんかく)を、
おぼえました。

ブッダの登場人物たちが、

「ガンバレ!」
「負けるな!」
「あなたの人生は、あなただけのものではない!!」
「ぼくたち、私たちの生命のための
人生でもあるんだ!!」

「だから負けるな!」
「勝つんだ!」
必ず、幸せになるんだ!!」


そう・・、自分を、
励ましてくれているような、
そんな錯覚(さっかく)をおぼえました・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

ブッダの話し、
言い換(か)えれば、
釈迦(しゃか)、釈尊(しゃくそん)の話しは、
創価学会でも、
よく、引用(いんよう)されます。

創価学会(そうかがっかい)インターナショナル会長である、
池田先生が、言っています。

『御書(ごしょ)に、
「教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)を
うごかし奉(たてまつ)れば、
ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき
・さわがぬ水やあるべき・・」
と仰(おお)せの通り、
ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、
一切(いっさい)を動かしていく。』

ちなみに、御書(ごしょ)とは、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が書かれた、
論文や手紙をすべて集めたものです。

また、ご本尊とは、
仏(ほとけ)の生命そのものを、
あらわしたものであり、
自分の生命そのものを、
あらわしたものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることをあらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


ここで、まず引っかかるのは、
当然(とうぜん)これは、
創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる仏法(ぶっぽう)の信仰のことを
言っていますが、
創価学会の信仰と、
『釈尊(しゃくそん)』は
関係あるのか??ということです。

さきほど話しましたが、
釈尊とは、ブッダとも釈迦(しゃか)とも言われる、
仏教の創始者です。
日本のさまざまな仏教の大元(おおもと)は、
この釈迦(しゃか/釈尊)から来ている
と言えます。

ただし、現代の日本の仏教は、
釈迦(しゃか)の仏法(ぶっぽう)とは、
かけはなれたもので、
単なる形だけです。

釈尊(しゃくそん)の教えのかけらもない!
と言ってもいいでしょう。

だいたい、釈尊は、
『坊主は葬式(そうしき)に出てはいけない!
葬式というものは親しい知人や家族でやるものだ。
そんな暇(ひま)があったら、
今、苦しんでいる人のもとに行ってあげなさい。』
と言っているので、
坊主が葬式でお経(きょう)をあげるのは、
仏教でもなんでもない。
ただの金儲(かねもう)けの
エセ宗教だと言えます。

形だけ真似(まね)て、
お金儲けに利用しているだけですから、
かえって害(がい)になり、
そんな害になるものを人々に信じ込ませていれば、
その人々に害毒(がいどく)が伝わり、
その人たちを不幸にしてしまう!
ということです。

どういうことかというと、
間違(まちが)ったデタラメの宗教に
祈るということは、
その間違ったデタラメの宗教に、
自分の生命と人生を
ささげることになります。

間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生をささげていけば、
当然(とうぜん)、
自分の生命と人生は、
間違ったデタラメなものになっていく。

自分の生命と人生が、
間違ったデタラメのものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな不幸がもたらされてしまう!
ということです。


不幸の根源(こんげん)には、
形骸化(けいがいか)した仏教にかぎらず、
神社信仰や観光宗教など、
それらの間違った宗教がある!
ということです。


話しを戻(もど)しますが、
釈尊は、仏教の創始者です。
そして、釈尊が、
何を伝えようとしたか?
というと、
それは、
『生命の法則(ほうそく)』であり
『宇宙の法則』です。

簡単(かんたん)に言えば、
それは、
『幸せになるための法則』です。


それを、釈尊は、伝えようとしました。


そして、その幸せになるための
究極(きゅうきょく)の法則が
こめられたものが、
釈尊の『法華経(ほけきょう)』です。

だから、釈尊の法華経には、
その生命における、
あるいは宇宙における、
『幸せになるための法則』
が込(こ)められています。

だったら、
その釈尊の法華経(ほけきょう)を
やればいいじゃないか・・!
と思うかもしれませんが、
それも違(ちが)います。

法華経というと、
釈尊の法華経を思い浮(う)かべますが、
法華経というのは、
さっきも言ったように、
幸せになるための法則です。
そして、それは
時代時代によって、
表現の仕方(しかた)が違ってきます。

釈尊の時代であれば、
その、釈尊の法華経をやれば、
幸せになれましたが、
現代では、なれません。
この現代に、
釈尊の法華経を
いくら、やったとしたも、
幸せにはなれないし、
何の効力(こうりょく)もありません。

これは、釈尊自身が
言っていることですが、
釈尊が亡(な)くなってから
2000年以上経(た)った、
この現代という、
思想・人心が乱(みだ)れた時代では、
釈尊の法華経は、
返って害(がい)になり、
人々を不幸にする
原因(げんいん)にしかなりません。

だから、現代の日本のさまざまな仏教は、
良く見積(みつ)もっても、
その釈尊の仏教の域(いき)をでていないし、
はっきり言えば、
釈尊の仏教を適当(てきとう)に変え、
めちゃくちゃにしたような宗教ですから、
なんの効力もなく、
幸せにもなれません。

返(かえ)って、でたらめなメチャクチャな宗教ですから、
そのメチャクチャの当然の結果として、
害になり、
人々を不幸にしてしまう!
ということです。


では、釈尊が、
本当に伝えようとした
『幸せの法則』とは何なのか?


さきほど、法華経といっても、
時代時代によって、
表現の仕方(しかた)が違うと言いましたが、
今生きている人々を、
現実に幸せにしていける
『現代の法華経(ほけきょう)』とは何なのか??
ということになっていきます。

実は、
その答えが秘(ひ)められているのが、
釈尊の法華経だと言えます。

その釈尊の意図(いと)と
隠(かく)れたメッセージをくみとり、
唯一(ゆいいつ)正しく理解し、
その現代の人々が幸せになっていける
『真実の法華経』を発見し広めたのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。

そして、現代の人々が幸せになっていける、
『真実の幸せの法則』
『生命の法則』
『宇宙の法則』が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。

だから、『南無妙法蓮華経』とは、
釈尊が本当に伝えたかったものなんです。

そして、『南無妙法蓮華経』が、
今生きている人々が
真(しん)に幸せになっていける、
『現代の法華経』なんです。

だから、今、現実に効力(こうりょく)のある、
悩みを解決していける、
夢や希望をかなえていける、
力(ちから)ある幸せの法則が
『南無妙法蓮華経』であり、
それが、『現代の法華経』です。

ですから、創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる信仰は、
釈尊が真に伝えたかった法華経であり、
人々を幸せにしていける、
仏法(ぶっぽう)の
究極(きゅうきょく)の真髄(しんずい)なんです。

だから、創価学会と釈尊は、
深く密接(みっせつ)な関係があり、
釈尊が望み、伝え、
実現したかったものが、
創価学会の中にある!!!
ということです。


釈尊が望んだもの、
釈尊が望み実現したかったものが、
まさしく、
創価学会によって実現されている!!
ということです。


だから、

「『教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)を
うごかし奉(たてまつ)れば、
ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき
・さわがぬ水やあるべき・・』
と仰(おお)せの通り、
ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、
一切(いっさい)を動かしていく。」

と話したように、
創価学会のご本尊への必死の祈りは、
そのまま『釈尊』に通じていく。
なぜなら、
創価学会が実践している
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
「釈尊の望み」、
「願い」そのものであり、
『南無妙法蓮華経』が
釈尊が伝えたかったことだからです。

ゆえに、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、
釈尊のいう宇宙の法則、
生命の法則、幸せの法則を
実行することになり、
それはいわば、
釈尊自身をうごかすような
大きな結果を生み、
その結果、
悩みを解決できたり、
夢や希望をかなえていけたり、
さまざまな困難(こんなん)も乗り越(こ)えて、
幸せになっていけるわけです。


それが、創価学会の祈りなんです。


ゆえに、池田先生が言うように、

『教主釈尊を動かすことができれば、
ゆるがぬ草木はない!
さわがぬ水はない!』

そして、祈りをかなえ、
幸せになっていける!!


それが、
釈尊が本当に伝えたかった
宇宙と生命の幸せの法則であり、
究極の力(ちから)である、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと
いうことです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音198

1973年にノーベル平和賞を受賞し、
アメリカの国家安全保障担当補佐官や
国務長官を務めた、
ヘンリー・A・キッシンジャー博士は、
創価学会インターナショナル会長である
池田先生と、
8度にわたり、
対談している。

池田先生は、
キッシンジャー博士に質問している。

「人物評価(ひょうか)について、
どのような基準(きじゅん)を
お持ちでしょうか。」

アメリカの国務長官を務(つと)め、
世界各国のリーダーと
丁々発止(ちょうちょうはっし)の交渉(こうしょう)を
繰(く)り広げてきた、
世界を動かす立役者(たてやくしゃ)である。

答えは明快(めいかい)だった。

「私の変わらざる信念は、
交渉の相手を理解することが
きわめて重要(じゅうよう)だということです。

相手の知性ではなく
人格(じんかく)です。

知性の程度(ていど)を確かめることは
ごく簡単(かんたん)です。
しかし人生における
困難(こんなん)な問題はすべて、
賛否両論(さんぴりょうろん)が
知的レベルで真(ま)っ二つに
分かれた場合に起きるのです。

ですから、
いくつかの可能性の中から
一つを選択(せんたく)する場合に
『人格』がカギとなるのです。」


池田SGI(創価学会インターナショナル)会長と
キッシンジャー博士との出会いは、
小雪が舞(ま)うアメリカの
首都ワシントンだった。

国務長官の博士が、
国務省の執務室(しつむしつ)で
池田SGI会長を待っていた。

1975年1月13日である。

池田SGI会長が、73年1月に、
ベトナム戦争終結(しゅうけつ)を呼びかける
ニクソン大統領宛(だいとうりょうあて)の書簡(しょかん)を、
当時、大統領補佐官だった
キッシンジャー博士に託(たく)して以来、
博士と池田会長との
手紙のやりとりが続いていた。

訪米の際には立ち寄(よ)ってほしいとの、
博士からの歓迎の意が示されたことを
受けての訪問となったのである。

あいさつ、会談風景の撮影(さつえい)が終わると、
通訳(つうやく)一人だけを介(かい)して、
二人は向き合った。

キッシンジャー博士は、たずねた。

「率直(そっちょく)にお伺(うかが)いしますが、
あなたたちは、
世界のどこの勢力(せいりょく)を
支持(しじ)しようとお考えですか。」


博士が直球を投げてきた。


まさに、知識ではなく人格(じんかく)、
すなわち、どんな思想、
信念(しんねん)で動いているかを
見きわめようとする、
短いが鋭(するど)い問いである。

もちろん、池田SGI会長が、
前年にソ連、中国を相次(あいつ)いで訪問し、
コスイギン首相、周恩来(しゅうおんらい)総理らと
会った事実が前提(ぜんてい)にある。

即座(そくざ)にSGI会長が答えた。

「私たちは、
東西両陣営(りょうじんえい)のいずれかに
くみするものではありません。
中国に味方(みかた)するわけでも、
ソ連に味方するわけでも、
アメリカに味方するわけでもありません。

私たちは、平和勢力(せいりょく)です。

人類に味方します。」


キッシンジャー博士の顔に
微笑(びしょう)が浮(う)かんだ。


会見を終える時、
キッシンジャー博士は言った。

「また、友人としてお会いしたい。
これからも連携(れんけい)を取り合いましょう。」


「中国に味方(みかた)するわけでも、
ソ連に味方するわけでも、
アメリカに味方するわけでもない。

私たちは、平和勢力(せいりょく)です。

人類に味方します。」


人は、このことを、わかろうとしない。

なにか裏があるのではないか・・?
と邪(よこしま)なことを考えてしまう。

そして、創価学会に対して、
どうしようもないような
下劣(げれつ)なデマを流したりしてきた。

けれど、もしそれらの
下劣(げれつ)なデマが正しければ、
創価学会(そうかがっかい)は、
これほど世界に発展することはなかったでしょう。

また、創価学会の人たちが
喜々(きき)として、
創価学会の活動に取り組むこともないだろうし、
創価学会の信心を
真面目に実践(じっせん)することも
なかったでしょう。

それに、創価学会の信心と活動を
実践することによって、
創価学会の人たちが、
悩みを解決したり、
夢や希望を実現したりして、
幸せになっていくこともなかったでしょう。

ところが実際は、
創価学会の人たちは、
その創価学会の信心と活動によって
悩みを解決し、
夢や希望を実現して、
大いなる幸せをつかんでいる。

それは、創価学会が
正しい証拠(しょうこ)であり、
世間のデマが間違(まちが)いであることの
証明になります。

そう考えていった時、
なにか裏があるのではないか・・?と、
創価学会に対して、
邪(よこしま)なデマを流している連中のほうが、
よっぽど、何か裏があり、
「邪(よこしま)」なことを企(たくら)んでいる
と考えるのが、
妥当(だとう)なはずです。


キッシンジャー博士の話しに戻ると、
博士は、米中接近(せっきん)、
米ソの緊張緩和(きんちょうかんわ)、
ベトナム戦争からの撤退(てったい)、
中東和平交渉(わへいこうしょう)など、
まさに、『歴史を書き換(か)えた』
その実績は、
枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。

博士は、池田SGI会長に語った。

「どんな偉大(いだい)な事業も、
はじめは、すべて「夢」にすぎなかったのです。
だから必要なのは勇気です。
前人未到(ぜんじんみとう)の道をひとりゆくには、
勇気が必要なのです。」

それを地(じ)でいったのが、
71年7月、
極秘裏(ごくひり)に訪中して、
中国の周総理と会見し、
ニクソン大統領の訪中、
米中国交正常化に道筋(みちすじ)を
付けたことである。


国務長官を退(しりぞ)いた後も、
博士は、
米外交に影響力(えいきょうりょく)を持つ
重鎮(じゅうちん)として、
注目を集め続ける。

2007年に発表した、
核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を求める
共同提言(ていげん)は、
核抑止(よくし)戦略の当事者だった
人物の発言として
重大な意義(いぎ)をもつ。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

博士と池田SGI会長との8度目の会見は、
96年6月17日。

同月、SGI会長がキューバで
カストロ国家評議会長と会う予定を知ると、
ニューヨークの宿舎(しゅくしゃ)に
滞在中(たいざいちゅう)の池田会長を、
博士が訪(たず)ねてきた。
同年2月、キューバが
米民間機を撃墜(げきつい)し、
両国関係は悪化していた。

博士は関係の改善(かいぜん)を願い、
池田SGI会長のキューバ訪問に
強い期待を寄(よ)せていた。

そしてSGI会長は、
カストロ議長と会見した際、
キッシンジャー博士の真情(しんじょう)を
伝えたのである。


博士とSGI会長との初会見から40年。
創価学会は、世界192カ国に広がり、
博士と語り合った世界平和の道は、
大きく広がったと言える。

2015年には、米国とキューバの
国交正常化も実現した。


聞いた話しですが、
キッシンジャー博士は、
池田SGI会長と会見した後、
池田会長を評(ひょう)して、
こう、言ったそうです・・。


「グレイト・パーソナル(偉大なる個性・人格)」

・・と。


人格を最も重要視(じゅうようし)する
博士の言葉だけに、
重みがある・・。


「グレイト・パーソナル・・!!」


キッシンジャー博士の
池田SGI会長に対する期待と
その対応を見るとき、
その言葉はまさに真実であり
本当なんだ!と、
心から思う・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音197

二十世紀の天才ヴァイオリニストである
ユーディー・メニューイン氏は、
いつもマッサージを頼(たの)む、
知人の女性がいた。

ある時、メニューイン氏は、
そのマッサージを頼む女性に言った。

「あなたのマッサージは素晴らしい。
まるで指が話しかけているようだ。」

そして、マッサージの秘訣(ひけつ)を
尋(たず)ねると、
女性は答えた。

「私は仏教徒(ぶっきょうと)なんです。
マッサージをする時は、
心で、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
と唱(とな)えるんです。」

仏教徒というのは、
創価学会員(そうかがっかいいん)のことで、
イギリスの婦人部員だった。


「ナンミョウホウレンゲキョウ・・・・・、
素晴らしい音律(おんりつ)だ。」


以来(いらい)、
メニューイン氏は、
南無妙法蓮華経を口ずさむようになり、
池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)の
著作(ちょさく)を読破(どくは)していった。

そして、思った。

池田SGI会長に会いたい!!

そして、数年後、
メニューイン氏は、
池田SGI会長と会見することになる。


会見の中で、
メニューイン氏は、言っています。

『「南無妙法蓮華経」の「NAM」という音に、
強い印象(いんしょう)を受けます。

「M」とは命の源(みなもと)というか、
「マザー (MOTHER)」の音、
子どもが一番最初に覚(おぼ)える
「マー(お母さん)、マー」
という音に通じます。

この「M」の音が
重要な位置を占(し)めている。』

この言葉に対し、
池田先生は、言っている。

『日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、
「南無妙法蓮華経」を
「歓喜(かんき)の中の大歓喜」
「歓(よろこ)びの曲」である、
ともされました。

妙法(みょうほう/南無妙法蓮華経のこと)
の音律(おんりつ)は、
太陽が昇(のぽ)るような
躍動(やくどう)の音律です。

「永遠の創造(そうぞう)」であり
「永遠の出発」であり、
「永遠の戦い」である
宇宙の大生命力が、
こもっているのです。』


メニューイン氏が、
マッサージを頼(たの)む
知人の女性に感じたように、
『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによって
もたらされるエネルギーは、
人に伝わる・・・!!

その『南無妙法蓮華経をとなえる』
エネルギーは、
真心(まごころ)となって伝わったり、
感動となって伝わったり、
また、具体的(ぐたいてき)に
病気などを蘇生(そせい)される
エネルギーとなって、
伝わることもある。

ある創価学会員の看護士の方が、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りについて、

「手から、毛穴から、
祈りは、すべて、通じていく!」

と言っていた。

『南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、通じる!』

単(たん)なる一時しのぎでも、
でまかせでもなく、
自分ひとりの問題でもなく、
南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、
人々に通じていく!!


ここに、
『南無妙法蓮華経をとなえる』
スゴサがあるのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

また、
『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによって
もたらされるエネルギーは、
人に伝わるだけではなく、
人に幸せをもたらしていく。

南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、
幸せのエネルギーとなって、
人へ、未来へ、
世界へと、伝わっていく。

そしてその幸せのエネルギーは、
地域や社会、
職場や家庭に伝わり、
その環境(かんきょう)をより良く、
幸せに変えてくことなる。

だから、
創価学会の人たちがとなえている、
『南無妙法蓮華経』は、
世界を、
幸せに変えている!!
と言っても、
言い過(す)ぎではない・・・!


また、当然(とうぜん)、
南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、
自分自身に伝わっていく。

南無妙法蓮華経の幸せのエネルギーは、
自分自身に伝わり、
しみ入り、
自分自身を幸せに変えていく。

そしてその幸せのエネルギーは、
自分の悩みを解決したり、
夢や希望をかなえる力となっていく。

あらゆるものを、
あらゆる人を、
あらゆる環境を、
より良く、
幸せにしていくエネルギーが、
『南無妙法蓮華経』
だということです。

ゆえに、これほどスゴイことはなく、
これほどの解決策(かいけつさく)もない。


結論(けつろん)から言うと、
南無妙法蓮華経をとなえきった人が、
幸せになるとも言えます。



メニューイン氏が思ったように、
南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、
人に伝わる。

伝わるだけではなく、
その人たちを幸せにしていく。

また、家族や職場、
地域や世界に伝わり、
その世界に幸せを満(み)たしていく。


その無限(むげん)に伝わる、
究極(きゅうきょく)の幸せのエネルギーが
『南無妙法蓮華経』であり、
その幸せを確実にもたらすのが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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