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こころの音106

まえに、ビデオで、
「がんばって、いきまっしょい!」
というドラマを、見ました。

このドラマは、
高校生の女子ボート部の物語なんだけれど、
その主人公の女の子が、
海辺で、ブタのぬいぐるみを、
拾(ひろ)うシーンがあった。
かわいいので、部室に持っていき、
「ブタ神様!」と呼んで、
部室に、祭る(まつる)ことに、する!

そして、それ以来、
部室に来ると、
ブタ神様に、手を合わせて、
「ブタ神様、ブタ神様、
 どうぞ、試合で、勝たせてください!」
と、祈(いの)る。

とっても、かわいいし、
おもしろい発想だとは、思うけれで、
これは、日本人の宗教観を、
如実(にょじつ)に、あらわしていると思った。

べつに、祈る対象は、なんだっていい。
パンパンって、手を合わせて、
祈れば、気分が出る!
おそらく、一般的な日本人の宗教観なんて、
こんなものだろうと思う。

パンパンって、手を合わせて、
その場の雰囲気(ふんいき)に、浸(ひた)れれば、
それで、いい!
おそらく、レジャーとまったく同じ考えで、
手を、合わせている。
単なる遊び、それが、
日本人の宗教観・・・。

けれど、ここに、危険が潜(ひそ)む。
ここに、不幸を生む、きっかけがある。

手を合わせる、
祈る、という行為は、
宗教の基本的要素(ようそ)であり、
根源的な役目と機能(きのう)を、はたしている。
だから、手を合わせる、祈るという行為には、
おのずから、重要な意味が、生まれてしまう!

手を合わせる、祈るとは、
宗教の観点(かんてん)から見ると、
祈っている対象(たいしょう)、手を合わせている対象に対し、
『あなた様に、命を、ささげます!』
『あなた様に、私の人生を、ささげます!』
という、意味が、もたらされる。

だから、実際に、手を合わせ、祈ると、
無意識(むいしき)のうちにも、
自分の生命は、祈っている対象に反応(はんのう)し、
「祈っている対象に、命をささげ、人生を、
ささげます!」と言っているのと、
同じ結果を、生む。
すなわち、祈っている対象が、
自分の生命に投影(とうえい)され、
祈り、手を合わせている対象に、
自分の生命と人生が、支配(しはい)される結果と、なる。

だから、宗教とは、ある意味、恐(こわ)い!!
たとえば、ブタのぬいぐるみを、神さまだと、
祭(まつ)り、そのブタのぬいぐるみに、
手を合わせ、祈ると、
自分の生命に、
ブタのぬいぐるみが、投影(とうえい)され、
自分の生命は、ブタのようになってしまう。
また、捨てられボロボロになった、
ブタのぬいぐるみのように、
自分の人生も、人から捨てられた、
ボロボロなものに、なってしまう。

すぐには、それは、わからないかもしれないが、
祈った時から、生命の上では、
その現象(げんしょう)は、起こっており、
長い年月の上では、
必ず、そういう結果となっていく。

それが、宗教です。
だから、気をつけなくては、いけない!
間違(まちが)ったものに、手を合わせ、
祈りを、ささげては、いけない!
間違ったものに、祈りを、ささげれば、
自分の生命に、間違ったものが、投影され、
『間違い』、すなわち、『不幸』という結果が、
自分の人生に、あらわれてきてしまう。

たとえば、お客を集めるためだけの、
間違いだと、わかりきった、
観光宗教や、神社信仰、
お金を、取ることしか考えていないような、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)も、すべて、
間違った宗教です。

すなわち、
それらの観光宗教や、神社信仰、
葬式仏教に、どんなに真心を込(こ)めて、
真剣に祈ってみたところで、
逆に、真剣に祈れば祈るほど、
どんどん、不幸になっていくということです。
間違った宗教に祈ったという結果として、
自分の人生に、
さまざまな形で、
不幸が、出現(しゅつげん)してきてしまうと、
いうことです・・・。

もちろん、付き合いも、礼儀(れいぎ)も、
儀式(ぎしき)もあるだろうから、
人間として、礼儀は、
わきまえなくてはいけない!

けれど、個人的に、
積極的に、そういう間違った宗教に、
かかわってはいけない!!
間違った対象に、手を合わせ、祈ってはいけない!

これが、生命の次元(じげん)から言える、
最低限の、
不幸を、招(まね)かない方法です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

さっきも話しましたが、
手を合わせ、祈るという行為(こうい)は、
生命の上では、
祈る対象に、命をささげることになり、
人生を、ささげることに、なっていく。
だとしてら、逆に
人間として最高に素晴らしいもの、
人間として最高に、尊(とうと)いもの、
人間に最高の勝利と幸せを、
ものらすものが、祈る対象であるとしたら、
その最高の祈る対象に祈りを、ささげれば、
その最高に素晴らしく、最高に尊く、
人間に最高の勝利と幸せを、もたらす対象は、
自分の生命に、投影(とうえい)され、
自分の人生も、最高に素晴らしく尊(とおと)くなり、
最高の勝利と幸せを、生み出す結果となる。

これは、当然の、あたりまえの結果です。

このことを、徹底的に、究極まで、完璧(かんぺき)に、
解明(かいめい)して、日蓮大聖人が、
未来の全民衆のために、残されたのが、
南無妙法蓮華経の『ご本尊(ごほんぞん)』です。
(ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、
 あらわしたものであり、自分の生命そのものを、
 あらわしたものでもあり、
 その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
 自分自身の中にあることを、
 あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。)

そして、その、日蓮大聖人の『ご本尊』を、
純粋に継承(けいしょう)し、日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法を、
真直(まっす)ぐに
実践しているのが、創価学会です。

だから、人間として、最高に尊いもの、
人間として、最高に素晴らしいもの、
人間に真実の勝利と幸せを、もたらす対象である、
日蓮大聖人の『ご本尊』に、
祈りを、ささげるとき、
『ご本尊』の生命は、おのずから、
自分自身の生命に、投影(とうえい)され、
その結果として、
最高の勝利と幸せを、もたらすことなる。

それは、宗教の理論(りろん)から言えば、
当然の、わかりきった結果であると、
断言(だんげん)することが、できる!

だから、創価学会の人たちは、
どんな人でも、
その『ご本尊』に、南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
自分自身の生命の、
最高の、素晴らしい可能性を、開花させながら、
悩みや困難(こんなん)を、乗り越(こ)え、
希望を、かなえながら、
幸せを、勝ち取っていけるんです。

その結果として、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
世界中の人々に、
幸せと勝利の笑顔を、
もたらしている・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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