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こころの音107


この前、ビデオで、
「最終兵器彼女」というアニメを見ました。
日本のアニメというのは、
個性が強いものが、多いから、
このアニメも、見てて、まだるっこくなって、
抵抗(ていこう)を感じました。

けれど、だんだん、慣(な)れてきたら、
おもしろくなってきて、
楽しめました。

や~~~!
しかし、すごいアニメだった。
なぜかって言うと、
日本のアニメは、
人間を殺すのが、好きだから、
よく、人が死にます。
後半のストーリーになると、
毎回、人が死んだりする。
けれど、
この「最終兵器彼女」というアニメは、
本当に、みんな!死んじゃう!!
最終回は、世界に、
主人公、一人しか、残らない!
世界の人、みんな、殺しちゃうなんて、
すごすぎる!!!

それで、世界中の人が、
みんな、死んじゃって、
主人公、一人だけ、生き残って、
それでも、最終兵器となって死んでいった、
自分の彼女を、愛し続けるという、
ストーリーなんだけど、
う~~ん!、話しが極端(きょくたん)なだけに、
確かに、
すごく純粋なラブストーリーかも、しれない。


すべての人が、いなくなって、
自分ひとりだけが、残る。
それでも、彼女を愛し、生きようとする。
人間は、一人でも、生きられるのだろうか?
ひとりでは、生きられないかもしれないが、
この世には、いなくなったとしても、
愛する人が、いたとしたら、
その人のことを思って、
生きられるかもしれない。

何かを、思い、何かを、愛しつづける!
それが、生命の本質(ほんしつ)だろうか?

この物語は、極端(きょくたん)ではあるけれど、
ある種の強力なインパクトを、与(あた)える。

それは、人間、死ぬ時は、
一人だ!!ということです。
どんなに愛する人が、いたとしても、
大好きな友達が、いたとしても、
死ぬ時に、一緒(いっしょ)に連れて行くことは、
できない!

死ぬ時は、
一人で死んでいかなければならない。


池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
こんな意味のことを、言っていた。

「どんなに、愛する人がいたとしても、
 どんなに、愛する家族が、いても、
 いつかは、死ぬ。
 必ず、いつかは、別れなければならない!
 それが、人生の本質だ。

 けれど、我(自分の生命のこと)は、
 永遠だ!
 だから、我(が)を、大切にしなければいけない!
 我を、強く、たくましく、
 最高に幸せな生命として、鍛(きた)え、
 輝(かがや)かせていかなければ、ならない!」


我(が)を、大切にするとは、
わがまま放題に、
欲張り(よくばり)になれということでは、
当然、ない!
我という自分の生命は、永遠だから、
より大きく、より、おおらかに、
強く、たくましくしていけば、
その我という自分の生命が、
太陽のように輝いて、
愛する人を、愛する家族を、
また、あらゆる人たちを、
自分の生命の輝きによって、
幸せにしていける!!
と、いうことだと思う。

死ぬ時は、ひとりだ。
それは、ある意味、
最終兵器彼女というアニメで、
世界中の人が、みんな死んじゃって、
世界に、たった一人、
残されたのに、似(に)ている。

世界に、一人だけ、残されたとしたら、
どうだろうか?
だれも、いない!
その時は、自分の心だけが、支え(ささえ)だ!
自分の心が、どけだれ、強いか?
自分の心が、どれだけ、大きいか?
すなわち、愛する人を、どれだけ、
愛しているか?
どれだけ、多くの人を、愛してきたか?
どれだけ、多くの人のために、尽(つ)くしてきたか、
どれだけ、人のために、生きてきたか?

その人間としての、
もっとも、根幹的(こんかんてき)な部分だけが、
支えとなるだろう!
人々を愛する生命の輝き、
人のことを思い、人のために尽(つ)くし生きた、
その心の大きさ、生命の輝きだけが、
支(ささ)えとなるだろう!

世界に、たった一人しか、
残らなかったとしたら、
お金も権力も名誉(めいよ)も、なんにもならない!
ただの、ガラクタ!
その時、輝くのは、
人々を愛した生命の輝き、
人々に尽(つ)くした心の大きさ!
それだけが、
その人に、価値(かち)を生む。

幸せの本質とは、
そういうものなのだと、思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

おそらく、死ぬときも、そうだろう。
お金も、権力(けんりょく)も名誉も、持っていけない!
あるのは、自分という丸裸(まるはだか)の生命だけ!
そうなったら、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?

それだけが、その人の価値となる!
それだけが、その人の宝物となる!
その時、初めて、
自分が、どれだけ幸せなのか?
丸裸の自分の生命だけになったとき、
はっきり、わかる!!

そのとき、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
 自分の生命は、こんなにも輝かしく、
 美しく、素晴らしいものだったのか!」

と心の底から思える、最高最大の、
溢(あふ)れんばかりの幸せを、
感じることのできる生き方が、
実は、創価学会の生き方であり、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

南無妙法蓮華経を、となえていると、
自分の中から、仏界(ぶっかい)という最高の生命、
強くて、あったかくて、愛に満(み)ちて、
何ものにも負けない、最強の生命が、
自然の内に、わきあがってくるので、
人を愛する生き方、人々のためになる生き方が、
自然の内に、できるようになってくるからです。

また、南無妙法蓮華経は、生命の中の幸福を、
無限に開花させる法則(ほうそく)なので、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
自分の生活そのものが、生きることそのものが、
人々を幸せにする、世界を、幸せにすることに、
つながっていきます。
だから、結局、自分の存在(そんざい)が、
人々を幸せにするための、最高の存在に、
変わっていきます。

だから、死ぬ時に、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
 自分の生命は、こんなにも輝かしく、
 美しく、素晴らしいものだったのか!」
と、感じることが、できるんだと思います。

実際に、創価学会の活動と信仰を、
一生懸命(いっしょうけんめい)やってきた人の死顔は、
ほんとうに、安らかで、まるで生きてるように、
晴れ晴れとして、幸せそのものです。
よく、成仏(じょうぶつ)というけれど、
まぎれもなく、仏(ほとけ)の顔を、しています!

それは、まさしく、
自分という丸裸の生命になった時に、
お金も権力も名誉も、何の役(やく)にもたたない、
だだ、自分の生命の輝きだけが、価値を持つ時に、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?
という本当の幸せの価値を問う瞬間(しゅんかん)に、

『ああ!自分は世界一の幸せものだった!!
 自分は、最高最大の勝利者だ!!
 私は、勝った!!』

と、心の底から、思い、感じ、確信した、
幸せの王者、勝利の王者、
生命の王者の顔に、ほかならない!!

だから、創価学会員の死顔は、
最高に素晴らしい!
それは、本当の幸せのために、
生きてきた証(あかし)だ。
生きることが本当の幸せだった証であり、
本当の幸せを、つかんだ証(あかし)だ!

また、その生きかたが、できるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
創価学会員の生き方です・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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