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こころの音109

まえに、テレビで、
自爆(じばく)テロを繰(く)り返す、
過激教団の聖地に、
自爆テロによって命を捨てた人たちの写真が、
聖者のように、神々のように、
飾(かざ)られているのを、
見たことがあります。

自爆テロによって命を捨てた人たちは、
その過激(かげき)教団からしたら、
確かに聖者なのだろう・・・。

けれど、これは、
どう考えても、おかしいし、
常人(じょうにん)の認められるところでは、ないだろう・・。

大切な大切な生命。
その大切な生命を、自爆テロによって、
多くの生命を殺し、
自分の生命までも、殺してしまう!!

こんなひどいことが、あって良いわけがない。
家族を亡くした遺族が、
家族の死を、悼(いた)み、弔(とむら)いたい気持ちは、
十分にわかりますが、
過激教団の聖地に、
自爆テロで命を落とした人たちの写真を、
神々のように、飾(かざ)ることには、
大きな恐怖(きょうふ)と危険性を、
感じないわけにはいかない。


けれど、それと・・・、
似たようなところが、日本にもある・・・。


それは、靖国神社です!。
靖国神社には、戦争によって、
命を落とした人たちの写真が、
自爆テロを繰り返す過激教団のように、
飾られているそうです。
しかも、それらの戦争によって命を落とした人たちを、
『神』と、あがめている!!!

ここに、大きな恐怖と危険性(きけんせい)を、
感じないだろうか?

いくら、それは違(ちが)う!と言ったところで、
戦争で人を殺し、自分も命を落とすのと、
自爆テロで、人々を殺し、自分も死ぬのと、
どう?違いがあるというのだろうか???

そこには、違いはない!!!
その強烈な危険性と異常(いじょう)さを、
鋭(するど)く、
見抜(みぬ)かなければならないと思う。

けれど、そのことに気づかず、
異常な鈍感(どんかん)さを持って、
靖国神社に参拝(さんぱい)する人々が、
あまりにも、多いことか・・・・・!!!

ここに、深刻(しんこく)な、
もっとも深い、
大きな問題があると思う。


その問題とは、何だろうか???


それは、宗教に対する、認識の甘(あま)さ、
認識(にんしき)の無さ、あるいは、
宗教とは、どういうものであるか?ということが、
わかっていない、
『無知(むち)な宗教観』にあると思う。

これは、私の信念だと、
ある人は、言うかもしれない。
確かに、信念は、自分ひとりの問題です。
自分の中にある。
ところが、宗教は、それだけではない。
宗教には、必ず、『祈る対象(たいしょう)』がある。
『祈る対象』がなかったら、
宗教は、なりたたないからです。

祈る対象があるということは、
完全なる個人としての信念とは、
様相(ようそう)を、異(こと)にする。
どういうことかというと、
祈る対象に、必ず、影響(えいきょう)を受ける!
ということです。
だから、宗教と言える。

ここに、宗教のもつ、大きな問題と、
可能性がある。
何に対して、祈るのか?
何に、手を合わせるのか?
これによって、宗教の正邪(せいじゃ)、
人間を幸せに導(みちび)くものか、そうでないものなのか、
決定的な分かれ目となっていく。

信念だけで、解決するほど、
宗教は、甘くない!
必ず、祈る対象がある。
人間が生命である以上、
手を合わせ、祈るということは、
その祈る対象に、
生命は、必ず影響を受ける。
それが、宗教です。

靖国参拝の問題に、もどると、
靖国神社には、
人間魚雷とか、
片道だけの燃料を積(つ)んで、
戦地に向かった飛行機とか、
戦争で死んでいった人たちの、
さまざまな遺品(いひん)も、展示されているようです。

それらのものは、
軍国日本の、悲しい、悲惨(ひさん)な歴史を、
とどめるという点では、
貴重な価値(かち)が、あるとは、思う。

けれど、やはり、
ふに落ちないのは、
戦争で死んでいった人たちを、
『神』と、仰(あお)いでいる点です!

戦争で、亡くなった人たちを、
家族や親族が、悼み(いたみ)、
たたえたい気持ちは、とても、わかるけれど、
それを、神として、
祭(まつ)り上げるのは、間違っていると思う。

死んだら、神になるのか?
死んだら、仏になるのか?
とんでもない!
たとえ、死んだとしても、
その生命は、その死んだ時の、
心の状態、その人の境涯(きょうがい)、
その人の生命状態は、まったく変わらず、
そのまま、残(のこ)っていく。

軍国日本に、
だまされ、大切な若い命を奪(うば)われ、
死んでいった人たちの、
その「悲しみ、苦しみ、怒り、絶望」
は、はかりしれない!
その生命を、神というのならば、
神は、「怒りや、絶望、悲しみや、苦しみ」に、
覆(おお)いつくされた、
苦しみそのもの姿を、現(あら)わすはずです。

それを、神というのなら、
神は、すべての人から希望を奪(うば)い、
苦しめ、悲しませる、
『暗黒の苦しみ』そのものと、なってしまう。

さきほども、話しましたが、
宗教には、かならず、
祈る対象がある。
祈る対象が、なんであるか?によって、
その宗教の、正邪が、きまってくる!
しかも、宗教というのは、
生命の上では、きわめて、科学的に、
必ず、結果を、ともなう。

ある対象に、祈りを捧(ささ)げたら、
その祈った対象と、同じ結果を、
自分の生命に、受けてしまう。
それが、宗教というものです。

すなわち、祈る対象が、
間違(まちが)った、悪しき、マイナスの対象であった場合、
自分の生命も、自分の人生も、
祈った対象と、まったく同じ、
間違った、悪(あ)しき、マイナスの結果が、
必ず、出てきてしまう。

祈っている対象が、化け物や悪魔のような、
存在であった場合、
自分の生命や人生も、
悪魔や化け物(ばけもの)に、とらわれたかのような、
悪(あ)しき、不幸という結果が、
必ず、出てきてしまう!
それが、宗教です!

日本人は、そういうことに、
あまりにも、無頓着(むとんちゃく)だけれども、
日本の観光宗教にしろ、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)、神社信仰にしろ、
一般的な理屈から考えても、
あるいは、仏法哲学(ぷっぽうてつがく)を、
ひもといてみても、
それらが、間違った宗教であることは、
明確に、わかりきっている。

すなわち、そういうものに、
祈りを、捧(ささ)げていると、
その間違った、マイナスの悪影響を、受けてしまい、
自分の人生や生命が、
さまざまな不幸に、陥って(おちいって)
しまうと、いうことです。

靖国神社に、スポットをあてれば、
靖国神社には、東条英機を、はじめとする、
軍国日本の主導者も、
まつられている。
しかも、その人たちを、
『神』と、あがめている。
それを、神と言うのなら、
日本中に、死の苦しみを、味(あじ)あわせ、
世界、アジアの民に、
多くの苦しみと、悲惨(ひさん)を、
巻(ま)き起こすものが、
『神』と、なってしまう!

それらに、祈りを、捧(ささ)げるとしたら、
それは、
『私は、日本中、世界中に、
最大の悲惨(ひさん)と苦しみ、死の悲しみを、
必ず、味あわせてみせます!!』
と、誓(ちか)いを、立てているのと、
同じになってしまう。

きびしいようだけれど、
それが、宗教というものです。
それだけ、恐(こわ)くて、
生命に与える影響が、多大なのが、
本当は、宗教です。

もうひとつ、重要なことは、
たとえ、どんなに善意(ぜんい)で、祈ったとしても、
たとえ、どんな美しい信念で、祈ったとしても、
祈る対象が、間違っていれば、
必ず、間違った影響を受けてしまい、
自分の意思とは、違った間違った方向、
すなわち、不幸という現象(げんしょう)を、
なんらかの形で、かならず、起こしてしまう!
ということです。

この法則(ほうそく)に逆(さか)らえる人は、
ひとりも、いません!

だから、本当は、
靖国神社に、こころからの善意と真心で、
祈りを、ささげたとしても、
それは、戦争でなくなられた人々を、
成仏(じょうぶつ)せさる行為とはならず、
逆に、地獄に落とす行為(こうい)となってしまい、
また、祈ってる自分自身も、
不幸へと、引きずり込(こ)まれてしまうと、
いうことです。

「ひどいことを言う!!!」
と言うかもしれませんが、
本当のことを言わないほうが、
もっとヒドイので、
言わせていただきたいと思います。

また、逆に、
「なに、言っているんだ!
 そんなの、関係ないよ!!」
と、笑っている人も、いるかもしれませんが、
絶対に、この法則に逆らえるものでは、
ありません!
結局、最後は、
「どうして、自分が!!」という結果が、
もたらされたとしても、
いたしかたありません・・・。

それが、人間の生命というものです。
それが、宗教というものです。
だから、宗教は、
厳密(げんみつ)に見ていかなければならない!

やはり、いちばんのネックは、
自分が、やっている行為が、
どういうことかも、わからない、
宗教に対する、あまりにもの、
認識の無さ、浅(あさ)はかさ!!
宗教に対する、
あまりにも愚(おろ)かな、
無知(むち)さ加減(かげん)!
その『宗教に対する無知』が、
人間の不幸の、すべての根源(こんげん)には、
あると思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

家族や親族が、
戦没者を、悼み(いたみ)、
大切にしたい気持ちは、
すごく、良く、わかる!

問題は、
戦没者(せんぼつしゃ)の生命を、
本当に、成仏させ、
安らがせ、幸せにしていける、
宗教が、必要だ!ということです。

そして、
それが、ほんとうに、できるのが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)なんです。

なぜならば、
戦争で亡(な)くなった人たちの生命が、
いちばん、安らぎ、幸せになるのは、
自分の家族や親族が、
だれよりも、幸せになることです。
だれよりも、幸せに、生きることです。

家族や、親族が、
だれよりも、幸せになっていく。
その幸せが、戦没者にも、
伝(つた)わり、戦没者は、安らぎ、
幸せになり、成仏していける。

だから、亡(な)くなった人たちを、
本当に成仏(幸せに)させてくれる宗教は、
今、生きている人間を、
最高に、最大限に、幸せにすることが、
できる宗教でなければ、ならない!

それが、現実の上で、
必ず、できる宗教が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

だから、
この南無妙法蓮華経の仏法は、
戦没者を、最高最大に、敬(うやま)い、
大切にし、成仏させ、幸せにしてける、
しかも、世界の平和と個人の幸せを、両立できる、
真の宗教だと、いうことが、できる。

また、
世界192カ国に広がる創価学会を見ていると、
実際に、その通りになっています・・・・・!!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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