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こころの音67

まえに、
聖教(せいきょう)新聞の『わが友に贈(おく)る』に、

(「わが友に贈る」は、
池田創価学会インターナショナル会長が、
聖教新聞の一面に、毎日、のせてくれている、
4、5行の短いメッセージです)

「未来部の友は皆、
 
法華経(ほけきょう)の命を継(つ)ぐ人。

だからこそ

学会と共に生きる

素晴(すば)らしさを伝えよ!」

と、あった。


未来部とは、
創価学会員(そうかがっかいいん)の
夫婦の間に生まれた子供たちのことで、
創価学会員二世とか、三世、四世になると、
思う。


『法華経(ほけきょう)の命を継(つ)ぐ人・・・』


法華経とは、仏法の真髄(しんずい)で、
結論から言えば、
現代では、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』が、
法華経なんです。

だから、仏法(ぶっぽう)の真髄とは、
「南無妙法蓮華経」のことになり、
『南無妙法蓮華経の仏法』が、
仏法の真髄である、「法華経」だということです。

だから、法華経の命を継ぐ人とは、
その、
「南無妙法蓮華経の仏法の真髄を、伝える人」
という意味だと思う。


仏法(ぶっぽう)とは、
はっきり言えば、
世界を平和にする、
世界を幸せにする、
最高にして唯一(ゆいいつ)の法則(ほうそく)と
言っていいので、
その仏法の真髄を、世界に伝える人は、
本当に、大切となる。


『学会と共に生きる
素晴らしさを伝えよ!・・・・』


創価学会と共に、生きる素晴らしさって、
何だろう?


いろいろ、ありすぎて、困(こま)るけれど、
「生きる価値(かち)」と共に、
生きることができる!ということだろうか?

自分の存在を、
最高最大に認(みと)めることが
できる喜(よろこ)び!だろうか?


普通は、家庭にしろ、会社にしろ、
現実の社会の中に生きていると、

(創価学会が、現実の社会ではないと
いうことではない!
創価学会は、現実社会を、
より強く、楽しく、幸せに、
生きていくために、ある)

自分という存在(そんざい)は、
どんどん、小さくなっていくような気がする。


自分の存在が、はっきり、見えてこない!


なんのために、生きているか、
見えてこない。

目先(めさき)の、さまざまな小さなことに、
とらわれて、あくせく、
生きているという感じがする。


人間としての、目的感、
人間として、
自分は、本当に生きているんだという、
本当の意味での生命に感じる、
充実感(じゅうじつかん)!


これが、隠(かく)れてしまうのが、
「世間(せけん)」だと思う。


見栄(みえ)や、ていさいに、とらわれ、
それでも、その日、その日、
めまぐるしく、生きていくしかない。

時は、どんどん、過(す)ぎていく。


これが、普通の、
あえて、わかりやすく言い方を変えれば、
創価学会を知らない人たちの、
生き方だと、思う・・。


創価学会と共に生きるのと、
そうでない生き方との違(ちが)いはなんだろう?


と考えたとき、

一般的に・・、
創価学会でない人たちは、
あまり、
「歓喜(かんき)」という言葉を、使わない。

「歓喜」という言葉が、めずらしく思えてくる。

それは、日々の生活の中で、
自分の生命に、「歓喜」を感じることが、
ほとんど、ないからだと思う。

「歓喜」とは、生きる喜び、そのもの!
この「歓喜」が、なかったら、
人生は、むなしく、はかないかもしれない。


ところが、創価学会の人たちは、違う。
日々の生活の中で、
よく「歓喜」という言葉を使う。

それは、日々、自分の生命で、
歓喜を感じているからであり、
歓喜が湧(わ)き上がってくる実感(じっかん)を、
自分の生命で体験しているからであり、
また、その「歓喜」を
共に共有(きょうゆう)しているからだとも言える。

悩みを克服(こくふく)することのできた歓喜!

困難を乗り越(こ)えることのできた歓喜!

創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
夢や希望をつかむことのできた歓喜!

宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)し、
より良く人間革命していけた歓喜!

家族や職場、環境や境遇(きょうぐう)を、
より良く変えていくことのできた歓喜!

家族や友を、幸せに導(みちび)くことのできた歓喜!

単純(たんじゅん)に言えば、
勝利の歓喜!
希望がわき上がる歓喜!
未来までつらぬく幸せの歓喜!

その、あらゆる歓喜をつかみ、
味(あじ)わえる場所が、
創価学会(そうかがっかい)だと思う。


だから、
創価学会の中で、生きるとは、
この「歓喜」の中で、生きるということだと、
思う。


日々の生活の中で、「歓喜」を、感じながら、
生きる。


創価学会と共に生きるとは、
自分の生命に、歓喜を感じ、
自分の生命に、生きる価値を感じ、
勝利と幸せの生きる充実感を、
感じながら生きる!
ということだと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

以前、聖教新聞に、
ある落語家(らくごか)の師匠(ししょう)が、
毎日毎日、師匠と呼ばれながらも、
ものすごい、はかなさを、感じ、
妻がやっていた創価学会の信仰を、
はじめたと、書いてあった。

ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
虚飾(きょしょく)や、見栄(みえ)が、なくなってきて、
自分の欠点が、よく見えてきて、
弟子に、落語家としてではなく、
人間として、いろいろなことを、
教えることが、できるようになった!

と書いてあった。

そして、創価学会と共に生きる喜びを、
強く、語っていた。


創価学会と共に生きる素晴らしさとは、
何だろう?


南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
宇宙のリズムだ。

幸福を作る宇宙のリズムであり、法則だ。

創価学会は、その「南無妙法蓮華経の仏法」を、
日々、生活の中、人生の中で、
実践(じっせん)している団体なので、
創価学会と、共に生きるということは、
その南無妙法蓮華経の作る、
幸福のリズム、宇宙のリズムの中で、
生きるということになります。

それは、どんな時でも、
宇宙の幸せを作る波の上を、
サーフィンで、楽しく波乗(なみの)りして、
遊んでいるようなものかもしれない。


これが、幸せのリズムから、外れていたら、
どんなに、悲惨(ひさん)だろう!

宇宙のリズムである、
幸せを作る波に、のれなかったら、
どんなに、さみしく、つまらないだろう・・・!


池田先生が、

「創価学会は、
幸せの安全地帯(あんぜんちたい)なんだよ!」

と、言っていた。

だとしたら、
創価学会と共に、生きなかったら、
現実社会という危険に、さらされながら、
かすり傷(きず)で、すめばいいが、
人生の苦難(くなん)という、
さまざまな車に、衝突(しょうとつ)され、
大きな痛手(いたで)を負いながら、毎日、
それでも、生き続けなければならない。


それでは、あまりにも、つらいし、
悲しいと思う。


それは、歓喜を知らない人生、
創価学会と共に生きることを、
知らない生き方だと、思う。


結論(けつろん)から言うと、
創価学会と共に、生きるということは、
人生における、
すべてのものを、手に入れるのに、
等(ひと)しいと、思う・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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