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こころの音181

ぼくは、創価学会員だから、
普通に、聖教(せいきょう)新聞を
読んでいる。

創価学会員がみんな、
必ず聖教新聞を読んでいるわけでは
ないけれど、
一般的に、真面目に
創価学会(そうかがっかい)の信心を
やっている人は、
聖教新聞を読んでいる。


なぜ、聖教新聞を読むのかと、
自分に問いかけてみると、

それは、自分が、


「幸せを求めている!」


からだと思う。


もし、ぼくが、
幸せを求めていなかったら、
聖教新聞は、読まないでしょう・・・。


そう考えてみると、
聖教新聞は、
「幸せ」にポイントと重点を置いた
新聞であることが、わかる。



普通、新聞というと、
その時々にあった
事件や出来事や話題などが、
のっている。

また、それだけではなく、
その新聞独特(どくとく)の解釈(かいしゃく)というか、
それぞれの新聞に思想性(しそうせい)があり、
傾向性(けいこうせい)がある。

この新聞は
あっちよりの傾向があり、
あの新聞は
そっちよりの傾向があったりする。

よく言うように、
思想的に、
右よりだとか、左よりだとかと
表現することもできる。

こっちの新聞は反対だと言い、
あっちの新聞は賛成だ
という場合もある。

同じ物事にも、
さまざまな考え方があり、
それはそれで当然(とうぜん)だと思う。


細かい部分から言えば、
新聞には
思想の対決のような部分も
あるかもしれない。

一方は反対、
もう一方は賛成。
それは当然、
それが良いと判断(はんだん)して
書いてあるのだけれど、
その賛成と反対の狭間(はざま)で、
時として、
置(お)き去(ざ)りにされてしまうものがある。


それが、「人間の幸せ」だと思う。


特に、庶民(しょみん)の幸せ。
決して、新聞にはのることのないような、
名もない民衆たちの幸せ・・。

この名もない民衆たちの幸せが、
置き去りにされてしまう場合がある。

逆に言えば、
どうしようもないからだと
言うこともできる。

世の中に埋(う)もれているような、
庶民たちを幸せにできる
方法や手段(しゅだん)が
見当(みあ)たらないし、
またそれらの人々の
悩みや苦しみを解決する、
確実で具体的な方法もない。

だから、
それらの名もない民衆たちの幸せが、
新聞にのることは、あまりない・・・。


また、有名人や著名人(ちょめいじん)の死や、
それにかかわる病気について、
新聞にのることはあっても、
その大変な病気や障害(しょうがい)を
乗り越(こ)え、
蘇生(そせい)していった話しも、
あまり新聞にのる事がない。

それは、当然であり、
どんなに有名であろうと、
財力(ざいりょく)があろうと、
困難な病気を乗り越え、
勝利した話しなど、
ほとんど無いからです。


だから、そういう、
蘇生(そせい)のドラマが
新聞にのることも、あまりない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

ところが、聖教新聞には、
いま、上げたような、
普通、新聞にのることのない、
物語、ストーリー、ドラマが、
ことごとく、のっている。

それは、大変な病気を乗り越え、
勝利していった物語であり、
経済的にも大変な苦境(くきょう)を勝ち越え、
幸せを勝ち取った物語であり、
また障害(しょうがい)を乗り越え、
蘇生(そせい)していった物語でもある。

また、他の新聞では
決して、のることのないような、
名もない庶民たちの
勝利と幸せの凱歌(がいか)が
高らかに歌われているのが、
聖教新聞だと言える。

それは、まぎれなもない
現実の結果であり、
元(もと)を正せば、
歴史の上でも、だれも、
どうしようもなかった、
民衆の幸せ、
名もない庶民を、
現実に幸せにしていける
法則(ほうそく)と哲学(てつがく)が、
創価学会の、
南無妙法蓮華経を、となえる
仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!!
ということです。

ゆえに、
現実の科学的な証拠(しょうこ)として、
数えきれない多くの民衆の幸せを、
新聞にのせることができる。
また、それだけの
希望を生み出す力(ちから)が、
聖教新聞にはある!
ということもできます。


普通だったら、
決して新聞にのるようなことはなかった、
名もない民衆の勝利と幸せ・・!


その民衆の
壮大(そうだい)な叙事詩(じょじし)。

その民衆の勝利の歌が、
聖教新聞なのかもしれない。


だから、聖教新聞は、
『幸せを求める人』が
読む新聞だと思う。

そして、『幸せになる答え』が
必ずある!のが、
聖教新聞だと思う。

また、これほど、
人間に、
ひとりの人間に、
民衆に、
希望を贈(おく)ることのできる
新聞もない!と思う。


だれも、表立(おもてだ)って
言ったりしないかもしれないけれど、
探し求めている『幸せの本質(ほんしつ)』

そして、幸せという現実の結果・・!


その『幸せの本質』と
『幸せという結果』に、
真(しん)に、
具体的に、
現実的に、
直結(ちょっけつ)している新聞が、
聖教新聞だと思う・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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こころの音180

先日、
ブログのコメントで、
創価学会の南無妙法蓮華経と、
身延(みのぶ)の日蓮宗や
立正佼成会(りっしょうこうせいかい)の
南無妙法蓮華経との違(ちが)いについて
質問された話しをしましたが、
同じ方から、
創価学会と日蓮正宗との違いについて、
質問されたこともあります。

日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)というのは、
創価学会が昔、守り、
外護(げご)していた宗派で、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
純粋(じゅんすい)に受け継(つ)ぎ広めるために、
創価学会が、
大変に発展させてあげたところですが、
今は、創価学会とは
完全に別(わか)れ、
創価学会では、
日顕宗(にっけんしゅう)と呼んでいます。

はっきり言えば、
創価学会(そうかがっかい)が
日顕宗と呼んでいる日蓮正宗は、
創価学会が呼び名を変えたように、
とても、
日蓮正宗と言えるようなしろものでは、
ありません。

正宗とか言うと聞こえはいいですが、
魔性(ましょう)に食い破(やぶ)られ、
とらわれた、
毒蛇(どくへび)のような存在です。


悪そのものと言ってもいいでしょう。


昔、創価学会が、
どれだけ正宗を守り外護(げご)し、
発展させてあげたか。

その恩(おん)は、
計(はか)り知れないはずですが、
その恩を仇(あだ)で返すような、
畜生(ちくしょう)以下のやからです。


彼らは、創価学会員を、
金になる奴隷(どれい)のようにしか
考えられなかった。

そして、自分たちの
私腹(しふく)が肥(こ)えると、
もういいと、かってに、
創価学会を破門(はもん)してきた。

当時の日蓮正宗のトップだった
日顕(にっけん)という男は、
創価学会のインターナショナル会長である
池田先生への、
人々の尊敬と賞賛が、
憎(にく)くて憎くてしょうがなかった。

そしていつか、
あいつらの首を切ってやろうと
機(き)をうかがい、
池田先生と創価学会を
破門(はもん)してきた。

そうすれば、
創価学会の半分の人は、
日蓮正宗側につき、
それだけの信徒がいれば、
遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)、
遊んでくらせると考えたからです。

けれど、
創価学会員は、ばかではないので、
日蓮正宗側につくものは、
ほとんどいなかった。

そして、正宗は、
没落(ぼつらく)の一途(いっと)をたどり、
逆に創価学会は、
毒蛇(どくへび)のような、
梅毒(ばいどく)のような、
正宗との縁(えん)が切れたおかげで、
世界宗教として
自由自在に活動できるようになり、
世界が賞賛(しょうさん)し期待し、
世界192カ国に広がる
創価学会へと飛翔(ひしょう)していった。


なるべくしてなったと言うか、
日蓮正宗と切れて、
本当に良かった。

もし正宗が引っ付いていたら、
創価学会は、これほど発展できなかったでしょう。


だいたいにおいて、
その当時の日蓮正宗のトップ、
日顕という男は、
売春問題で、
最高裁で三度も断罪(だんざい)された男で、
裁判所で日顕の言うことを信じる人は、
ひとりもいません。

ようするに、
裁判所おすみつきの
「大うそつき」です。

正宗は、
そういう男が権力(けんりょく)を
にぎっているようなところですから、
だいたい、
どんなものか、
察(さっ)しがつくと思います。


この日顕という男は、
創価学会を破門(はもん)すると、
創価学会の真心の供養(くよう)で
つくられた正本堂という、
文化遺産(ぶんかいさん)的にも、
建築物としても、
非常に価値(かち)のある、
何百年?以上もつであろう素晴らしい建物を、
わざわざ金をかけて、
いきなりすべて破壊(はかい)し、
取り壊(こわ)し、
そのあと、くだらない、
宗教くさい建物を立てている。

また、正宗の敷地(しきち)にある
美しい桜並木を、
切り倒(たお)してしまっている。


普通の人間のやることではありません。


だから、創価学会では、
日蓮正宗とは呼ばす、
日顕宗と呼んでいますが、
それが日蓮正宗というものです。
いくら口で立派(りっぱ)そうなことを
言っているとしても、
そんなものは、
糞(くそ)にもなりません。


日蓮正宗(日顕宗)というのは、
僧侶が上、
信徒は下、
僧侶の言う事は絶対。
信徒は金を出せ!

それが正宗の本音(ほんね)であり、
彼らの心には、
それ以外のものはありません。


また、その、
日蓮正宗についた人間ほど、
かわいそうな人もいません。

日蓮正宗は、
真実に最も近いところで、
悪逆(あくぎゃく)をしているわけですから、
その罪(つみ)と害毒(がいどく)は、
はかりしれず、
その正宗につくということは、
悪に命をささげるようなものなので、
当然(とうぜん)、
その人は、
底知れぬ不幸に
陥(おちい)っていきます。


宗教というのは、
正邪(せいじゃ)と結果を、
明確にともなうものです。

間違った宗教、
悪(あ)しき宗教につくということは、
その人がかりに、
どんなに善意でやっているにしても、
その対象が悪であり
害(がい)になるものなので、
自分の生命は、
どうしても悪害(あくがい)に染(そ)まり、
その結果、
必ず不幸になっていきます。


だから日蓮正宗につくと、
本当に不幸になります。
口でどんな理屈(りくつ)を言っても、
幸せや功徳(くどく)、
効力(こうりょく)がもたらされることはなく、
さまざまな形で、
あらゆる形で、
不幸がもたらされます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

それとは反対に、
創価学会は、
世界192カ国に広がり、
世界中の人々を幸せにしている。

それは現実に、
ひとりひとりのさまざまな悩みを解決し、
また、夢や希望をかなえる
大きな力となって、
さまざまな形で、
現実に、
幸せの結果を、
もたらしているということです。

結果がでるということは、
それがなによりも、
正しい証拠(しょうこ)となります。

また、創価学会が、
ひとりひとりを蘇生(そせい)させ、
幸せにしていった結果として、
世界にどれだけの平和をもたらしたかは、
計り知れず、
だから世界中の有識者は、
創価学会を絶賛(ぜっさん)し、
賞賛して、
大きな期待と希望をたくしています。


それは、
創価学会と日蓮正宗(日顕宗)との違いを、
歴然(れきぜん)と、
あらわしています。


勝負と結果は、
明確についているとも、
言えます。


だから、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえていれば、
なんでもいいということではなく、
それが悪に向かい、
結果として悪を助けるものならば、
いくら南無妙法蓮華経をとなえても、
不幸になり、
どんなに善意でやっても、
真剣にやればやるほど、
不幸がもたらされます。


それが真実であり、
それゆえに、
決して日蓮正宗(日顕宗)につくべきではなく、
たんなる形式でものごとを考えて、
日蓮正宗で
南無妙法蓮華経をとなえていったならば、
大きなしっぺ返(がえ)しと、
大きな不幸を、
被(こうむ)ることになります・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

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