SSブログ

こころの音176

ある婦人がいました。

彼女は優秀な女性で、
「私ほど、親孝行してきた人は、いない!」
と自負(じふ)していた。

そんな彼女の母親が倒(たお)れ、
介護(かいご)が必要になった。

親孝行な彼女は、
献身(けんしん)的に介護に、
取り組んでいった。

けれど、日々の介護の中で、
精神的にも肉体的にも、
疲(つか)れてきて、
今まで、
「これほど親孝行をしてきた人は、いない!」
と自負してきた自分に、
親に対して、
醜(みにく)い心、
「死んでくれればいいのに・・」とか、
すさんだ心が、
出てくるのを感じた。


そんな中、
自分を見失(みうしな)わないために、
毎日の犬の散歩だけは、
続けようと思っていた。

そして、ある時、
犬の散歩をしているとき、
聖教新聞(せいきょうしんぶん)が、
「ご自由に、お取りください!」
と書いて、
カゴに入って
置(お)いてあるのを見つけた。

どんなことが、書いてあるんだろうと、
ふと、思い、
手にして読んでみた。

最初、目に付(つ)いたのは、
一面に出ている、
世界中の創価学会(そうかがっかい)の人たちの
笑顔あふれる写真だった。

「なんて!清々(すがすが)しい笑顔なんだろう・・!」

と思い、
他の記事なども、
読んでみたりした。


そこには、
希望あふれる言葉が、
満(み)ちていた。

そこには、
日々の介護の中で、
自分のすさんでいく心を、
取り戻(もど)してくれるものが、
あった・・!

とくに、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)の
メッセージや随筆(ずいひつ)の中には、
自分を勇気づけ、
励(はげ)ましてくれる言葉が、
あふれていた。

そして、
「ご自由に、お読みください!」
と書かれて置いてある聖教新聞を、
読むのが日課(にっか)になっていった。


犬を散歩させるためというより、
聖教新聞を読むために、
外に出るようになった。


そして、自分も創価学会に入りたい!
と思うようになり、
とうとう、その外の壁(かべ)に
聖教新聞が置いてある家のドアをたたき、
自分から、
創価学会に入った!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

聖教新聞には、
創価学会には、
乾(かわ)いた心を、
うるおしてくれるものが、ある!!

さまざまな苦難の中、
すさんでいく心を、
取り戻(もど)してくれるものが、
ある!

それは、
自分の生命を蘇生(そせい)させる!
ということです。

自分の人生に、
希望を呼(よ)び戻(もど)し、
幸せにしていける力(ちから)がある!!!
ということです。


生命を蘇生(そせい)させる・・・。


それが、どれだけ、
スゴイことか!!

それが、どれだけ、
大切なことか!!

それが、どれだけ、
必要とされているか・・。


人は、蘇生を求めている。

こころの蘇生・・、
生命の蘇生・・、
希望の蘇生・・、
人生の蘇生・・、

そして、幸せの蘇生・・!!

それをもたらす場所が、
創価学会だということです。


また、創価学会がもたらすものは、
単なる癒(いや)しというよりも、
人生に挑戦し、
勝っていける、
根底(こんてい)のエネルギーとなるものです。

どんな苦難があったとしても、
負けない、
どんな試練(しれん)も乗り越(こ)え、
勝って、
幸せをつかんでいけるものです。

それは、
最高の歓喜(かんき)となって、
その人の生命と人生を、
飾(かざ)っていく。

そして、これ以上ない、
満足と幸せとなって、
その人を、笑顔でつつんでいく。

だから、今日、紹介した婦人が、
聖教新聞を見たときに、
「なんて!清々(すがすが)しい笑顔なんだろう・・!」
と思うような笑顔になっていく。



だれでも、苦難や悩みが、
ないわけではない。

また、大きな壁(かべ)に、
夢や希望が打ち砕(くだ)かれるような
思いをすることもあるでしょう。

けれど、その、
どうしても解決しなかった悩みや問題を、
解決していける力(ちから)が、
創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰にはあり、
また、壁(かべ)のように思える夢や希望も、
かなえていける、大きな大きな力が、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰には、ある!!
ということです。

だから、明るいんです。
だから、希望があるんです。
だから、清々しい笑顔が、できんるんです。


創価学会は、
希望と幸せのオアシスなんです!!
また、現実に、
人生と生命を、幸せにしていける、
これ以上のオアシスは、ないでしょう!


今日、紹介した婦人は、
その希望と幸せのオアシスに
魅了(みりょう)されて、
創価学会に入ったんだと思う。


そして、それが、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
創価学会という、
真実の幸せに向かって、
まっすぐに進んでいける場所であり、
また、その紙面が、
聖教新聞には、あるということです・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音175

以前、
ある創価学会(そうかがっかい)の
壮年の方が、
体験を話してくれました。

その壮年の方は、
知恵(ちえ)おくれの子として
生まれてきたそうです。

学校に行くことになり、
親は、その子を、
普通のクラスに入れるか、
特別クラスに入れるか、
悩んだそうです。

そして、普通のクラスに
入れることにしたそうです。

その子は、
当然、授業を受けても、
まったくわからない。

通信簿(つうしんぼ)は、
オール1だったそうです。

そんな親も創価学会員だったんですが、
創価学会の信心、創価学会の活動も、
熱心に取り組んだそうです。

そして、その親は、
その知恵おくれの子供に、
毎日
創価学会が行っている信仰の基本である、
『勤行(ごんぎょう)』だけは、
強制的(きょうせいてき)にやらせたそうです。

勤行(ごんぎょう)というのは、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッダ)の
法華経(ほけきょう)の一部分を、音読します。
だいたい、3分から5分くらいかかりますが、
その後、好きなだけ
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
繰(く)り返し繰り返し、となえます。

それをまとめて「勤行」といいます。


その子供は、
いやだったけれど、
親に強制させられながら、
毎日、勤行を続けたそうです。

そうしていたら、
2年になったら、
通信簿が、
オール2になったそうです。

そして、3年になったら、
通信簿に、
3が並(なら)ぶようになり、
4年になったら、
4がとれるようになり、
6年の時は、
オール5になったそうです。


そして、なかなか入れない
創価大学に入学していった!
という話しでした。



自分も創価学会に入り、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)のすごさは、
わかっているつもりですが、
こういう話しを聞くと、
一段(いちだん)と、
創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法のスゴサを、
改(あらた)めて
実感(じっかん)する思いがしました。

このようなドラマが、
世界中いたるところで、起(おこ)っているのが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰なんだと思う。


そう思うと、
この創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法が、
どれだけの人を
幸せにしてきたことか!
どれだけの人々の
不幸を救(すく)ってきたか・・!
どれだけの人々の
悩みを解決してきたか・・!
どれだけの人の夢や希望を
かなえる大きな力になってきたか・・!

それは、それこそ、
計(はか)り知れないと思う。

また、そのことによって、
地域や社会、世界を、
どけだけ、幸福にし、
平和に貢献(こうけん)してきたか、
計り知れないと思う。


別に、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを
言うつもりは、ありませんが、
創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰には、
現実に、
人間の中から
無限の可能性を開く力(ちから)がある!
ということです。

日々、南無妙法蓮華経をとなえて、
自分の可能性に挑戦していった時、
時とともに、それは、
思いもよらない素晴(すば)らしい結果として、
花開いていくと、
いうことだと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

人は、時として、
さまざまな境遇(きょうぐう)や環境(かんきょう)、
自分に降(ふ)りかかってきた、
さまざまな不幸や試練(しれん)、
困難に打ちのめされ、
絶望(ぜつぼう)したり、
あきらめてしまうようなことも、
あるかもしれない。

けれど、
人間の可能性は、
計り知れない。

そして、その可能性を開花していける力(ちから)が、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法には、
ある!!

それが、
どんな困難(こんなん)な壁(かべ)であろうとも、
どんな宿命(しゅくめい)であろうとも、
その宿命すら、
打ち破っていく力が、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法には、ある!

だから、世界中の創価学会の人たちが、
どんな困難な壁であろうと、
その宿命がどんなものであろうとも、
それを打ち破り、乗り越(こ)えて、
勝利と幸せを、
勝ち取っている。


それは、
現実に起った事実であり、
現実の明らかな証拠(しょうこ)です。


この証拠だけは、
だれ人も、くつがえすことができない。

だから、創価学会は、
広がり続け、
世界192カ国に広がっている。


今日、話した、
壮年の方のような体験を聞くと、
勇気がでる。
自分も、まだまだ、がんばれる!
まだまだ、
無限の可能性を、
開いていこう!と・・・。


その人間の持つ、
無限の可能性を、
どこまでも、どこまでも、
開いていける、
現実的で、
決定的な方法が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音174

唐突(とうとつ)だけれど、
日本の一般的な宗教においては、
純粋(じゅんすい)な人ほど、
不幸になると、
言うことができます。

一般的な日本の宗教とは、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、
観光宗教などですが、
どういうことかというと、
それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教は、
あきらかに間違(まちが)った宗教であり、
デタラメな宗教だということです。

それは、ちょっと考えれば、
わかりますし、
仏法哲学(ぶっぽうてつがく)をひもとけば、
完全に間違った宗教であることがわかります。

間違った宗教というと、
ピンときませんが、
はっきり言えば、
人を不幸にしてしまう宗教だということです。

間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
その間違った宗教に、ゆだね、
ささげていくことになります。

間違ったデタラメな宗教に、
自分の生命と人生をささげていけば、
自分の生命と人生は、
当然(とうぜん)、
間違ったデタラメなものになっていく。

自分の生命と人生が、
間違ったデタラメのものになっていったなら、
その間違った、でたらめの結果として、
それは、
さまざまな形で、
自分の人生と生命に、
不幸をもたらしてしまう!
ということです。


それが、
日本の葬式仏教や神社信仰、
観光宗教だということです。


だから、それらの宗教は、
数字であらわすとしたら、
すべて、マイナスの宗教であり、
-1とか-10、-100、
-1000、-10000などという、
必ず、『マイナス』がつく
存在(そんざい)だということです。

マイナスの度合(どあ)いを、
最も低く見積(みつ)もって、
それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教を、
かりに、数字で
「-1」としたとします。

そして、それらの宗教に祈ることを、
かけ算で表現(ひょうげん)してみます。

そうすると、
「-1」に「1」をかけただけなら、
それでも
「-1」で済(す)みます。

けれど、「-1」に「10」をかけたら、
マイナス10倍の
「-10」になってしまいます。

そして、「-1」に
「100」や「1000」をかけていったら、
逆(ぎゃく)に大きなマイナスである、
「-100」や「-1000」に
なってしまいます。


それが、
世間一般的な葬式仏教や神社信仰、
観光宗教だと、いうことです。

かける倍数(ばいすう)を増やすというのは、
強く純粋に、
真剣に祈っていくことを、
あらわしています。

だから、それらの宗教に
真剣に強く、純粋に祈れば祈るほど、
マイナスにかける倍数が増えていき、
祈れば祈るほど、
「マイナス」の数が増えていく!
ということです。

マイナスの数が増えていくということは、
不幸を被(こうむ)る量(りょう)が
増えていく!
と、いうことです。

だから、それらの
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教に、
純粋に、
真剣に祈れば祈るほど、
不幸になっていく!
ということです。

だから、それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教などでは、
純粋な人ほど、
不幸になってしまう!
という結論(けつろん)になってしまいます。


不条理(ふじょうり)というか、
よくドラマや映画などで、
なんで、あんないい子が・・・
とかいうことがありますが、
そういう結果にもなりかねない!
ということです。


だから、宗教なんだから、
純粋に真剣に祈ったら、
いいことがありそうだ・・
と考えるのは、
間違えです。

宗教には、正邪(せいじゃ)があり、
間違ったものに祈っていけば、
不幸になります。


それが真実であり、
法則(ほうそく)です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

けれど、素直(すなお)に純粋に祈ったほうが
不幸になるなんて、
こんな、かわいそうなことはありません。

そうではなく、
素直に純粋に祈っていけば、
幸せになっていける、
本当の宗教は、ないものだろうか?と、
考えたくなります。


実は、その、
素直に、純粋に、
真剣に祈れば祈るほど、
幸せになっていける宗教が、
創価学会(そうかがっかい)の
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。

この創価学会の、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
の仏法は、
世間の間違った宗教とは逆に、
真剣に祈り、実践(じっせん)すればするほど、
幸せになっていきます。

必ず、プラスの結果が出る!
ということです。
だから、創価学会は、
世界192カ国に広がっている。

もちろん、純粋なだけではだめですが、
真剣に祈り、
勇気をもって、実践していった時、
計(はか)り知れない力と可能性を
発揮(はっき)する。

それが、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


だから、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、
他の宗教と違い、
文字通り、
『プラス』の宗教なんです。

数字であらわせば、
プラスの1000にも、10000にも
百万にも、一億(いちおく)にもなるのが、
創価学会の信心です。

いわば、創価学会の信心には、
無限の可能性がある!
ということです。

そのプラスの信心に、
祈りという「かけ算」をしていったとしたら、
その数字は、
何百億にも、何兆(なんちょう)にも、
なっていく可能性があります。


それが、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法です。


だから、無駄(むだ)がない。
祈れば祈るほど、
幸せになっていける。



葬式仏教や神社信仰、
観光宗教などのように、
純粋に祈れば祈るほど、
不幸になるようなことは、
あってはいけない。

純粋に、真剣に祈れば祈るほど、
幸せになっていける、
また、祈りや願いを現実にかなえていける、
真実の宗教が求められます。


そして、その、
本当に祈りからプラスの結果がでる、
どこまでも無限に、
幸せをもたらしていける、
また、悩みや問題を解決でき、
夢や希望をかなえていける力(ちから)のある、
真実の宗教が、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音173

以前、聖教(せいきょう)新聞に、
『池田先生とフィリピン』という記事が、
のっていました。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)という人間が、
とても良くわかる内容になっていたので、
その『池田先生とフィリピン』の
記事の抜粋(ばっすい)を、
そのまま、のせたいと思います。


・・・・・・・・・・

ヤシの木が茂(しげ)る
マニラのホテルの入り口。

「ようこそ!フィリピンへ」

玄関前で日本人客を迎(むか)えた
ジョイ・アルベスは、
流(りゅう)ちょうな日本語で頭を下げた。

従業員の彼女は、
名古屋大学に留学した経験が
買われている。

しかし、高級車から出てくる日本人は、
たいていアルベスには目もくれず、
さっさとロビーへと向かってしまう。

「これだから、日本人は・・・・・・・・」

最後の言葉は、ぐっと飲みこんだ。

ホテルは空港から15分。
客室から有名な
『マニラ湾の夕日』が一望(いちぼう)できる。

どうやら近々、
日本の宗教団体のトップが来るらしい。
アルベスは
「また失望(しつぼう)させられるのか」
と思ったが、
迎(むか)える側の地元メンバーの熱意に打たれ、
ともに準備に奔走(ほんそう)してきた。

1991年4月19日の午後11時過ぎ。
池田大作SGI(創価学会インターナショナル)会長を
乗せた車がホテルの入り口に止まった。
車から降(お)りた会長は、
アルベスに折(お)り目を正し、
深々(ふかぶか)とおじぎをした。

「うちの人が無理難題(むりなんだい)を言って、
困らせたんでしょ。
本当に、ありがとうございます。」

アルベスの小さな手を
両手で握(にぎ)りしめた。

隣(となり)に立っていた
ホテルのマネージャーに語りかける。

「彼女は本当に
陰(かげ)で良くやってくれたと
伺(うかが)っています。
日本から贈(おく)り物を持ってきたので、
渡(わた)してもいいですか」

マネージャーは驚(おどろ)いた様子を見せた後で、
にっこり微笑(ほほえ)んだ。


その深夜、アルベスは、
SGI(創価学会インターナショナル)のメンバーと
遅(おそ)い夕食を共(とも)にした。

「実は私、今まで、
日本人は傲慢(ごうまん)な人ばかりだと
思っていました。」

池田SGI会長から贈(おく)られた写真集に
視線(しせん)を落とすと、
大粒(おおつぶ)の涙をためた。


「でも、池田会長にお会いして、
日本人が好きになりました!」


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

国立フィリピン大学。
フィリピンの最高学府(がくふ)で、
日本で言えば東京大学にあたろうか。
池田SGI会長に
「名誉法学博士号」を授与(じゅよ)している。

マニラ郊外(こうがい)のケソン市に、
メーンキャンパスが広がる同大学。
国花・サンパギータの
白い花が
咲(さ)き誇(ほこ)っていた。

1991年(平成3年)4月21日、
卒業式典(しきてん)の席上での
授与式(じゅよしき)だった。

壇上(だんじょう)のSGI会長は、
卒業生が前を通るたびに、
椅子(いす)から身を乗り出す。
拍手(はくしゅ)を送り呼びかける。

「よくやった!」
「勝ったね!」

日本語を解(かい)さない学生にも、
心は確実に伝わる。

前を通りすぎる時、
うれしそうな笑(え)みを浮(う)かべる。

ホセ・V・アブエバ総長(そうちょう)も、
穏(おだ)やかに見守った。

学生の列は、途切(とぎ)れなく続いた。
1時間が経過(けいか)すると
随行(ずいこう)メンバーは、
だんだん不安な顔になった。

常夏(とこなつ)の島。
気温は30度を超(こ)え、
じっとしても汗(あせ)が吹(ふ)き出る。
会場にクーラーはない。
扇風機(せんぷうき)だけである。

それでも、スーツの上に
ガウンをまとった池田SGI会長が、
身体(からだ)全体で
歓呼(かんこ)を送っている。

この直前に
経営学部で記念講演(こうえん)を
行ったばかり。

疲労(ひろう)はピークのはずだ。
体調は大丈夫(だいじょうぶ)なのか。
役員が香峰子夫人(かねこふじん/池田会長夫人)に
尋(たず)ねた。

「学生が、かわいくて、しかたがないんですよ。」

静かに微笑(ほほえ)んだ。

ようやくSGI会長の謝辞(しゃじ)になった。

用意した原稿(げんこう)を伏(ふ)せ、
話しはじめた。

「マニラを訪(おとず)れ、
私は思いました。

世界一、荘厳(そうごん)なる
旭日(きょくじつ)を仰(あお)ぎ、
世界一、尊厳(そんげん)なる夕日を望(のぞ)む
皆様の心もまた、
美しき宝の心であると!」

拍手(はくしゅ)が
一斉(いっせい)に沸(わ)き上がった。
鳴(な)りやまない。
この日、一番の大歓声である。
スタンディング・オペーションが
起こった。


2年後。
アブエバは授与式(じゅよしき)を振(ふ)り返り、
誇(ほこ)らしく語った。

「あの後、学生たちが

『池田会長のスピーチ原稿(げんこう)をください。
もう一度、心に刻(きざ)んでおきたい!』

とやって来ましたよ。
学生たちの伝説になっています。」


・・・・・・・・・・・・・
池田先生は、
今回、話したフィリピンの話しにかぎらず、
世界中いたるところで、
池田先生が出会った、
あらゆる人々に、
あたたかい感動と印象(いんしょう)を、
与(あたえ)え続けてきたんだと思う。


その、世界の人々の
評価と賞賛(しょうさん)の結果が、
名誉博士や名誉教授などの
350の名誉学術称号(めいよがくじゅつしょうごう)や、
750の名誉市民称号となって、
あらわれているんだと思う・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音172

すべての人は、
『仏法(ぶっぽう)』を、求(もと)めている。

けれど、仏法(ぶっぽう)というと、わからない。

人が望むもの・・ 、
人が、求めるもの・・。

それは、幸せであり、
希望であり、
安らぎであり、
調和(ちょうわ)である。

音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、
さまざまな文化にしても、
人は、自分が感動し、気持ちよくなり、
心が安(やす)らかになるものを、
求めて、
それらの音楽や映画や、
スポーツや趣味によって、
それらの自分の人生にとって
プラスとなるもの・・。
すなわち、希望や調和、
勇気や挑戦する心を、高めようとする。

すなわち、それらは、
すべて生きる喜び、
幸せに向かうものであり、
それらの生きる喜びを求めて、
さまざまなことを、やっている。


では、音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、さまざまな文化にしても、
それらは、いったい、
何を求めているんだろうか・・・?


それは、当然、幸せを求めている。

その表現の結果が、
感動であったり、
勇気であったり、
安らぎであったり
調和であったりする。

実は、それらの人々が求めている、
感動や安らぎ、希望や勇気、
調和とかいうものは、
『仏法のエッセンス』の一分(いちぶん)であり、
生きる喜びのすべてが、
『仏法(ぶっぽう)』の中にあるんです。

仏法とは、
生きる喜び、
幸せそのもののようなものです。

それを、無限に内包(ないほう)したもの、
喜びと幸せの、
大元(おおもと)の無限のエネルギーが、
『仏法(ぶっぽう)』です。

だから、さまざまな音楽にしても、
映画にしても、
文学や、さまざまな文化にしても、
生きる喜びという、
『仏法のエッセンス』の一部分(いちぶぶん)を求めて、
ちまなこになっている!
と言うこともできます。

それら、感動や勇気、
希望や調和、
安らぎなどの、
人間が幸せになるために、
欲(ほ)しくて欲しくて、しょうがないもの・・・。

実は、その、
人間が、本源的(ほんげんてき)に求めているものの、
本当の姿(すがた)であり、
究極(きゅうきょく)の幸せの姿が、
創価学会(そうかがっかい)が実践する
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』なんです。

だから、本当は、
音楽にしても映画にしても
文学にしても、
あらゆる文化が、
究極的に求めているのは、
『仏法(ぶっぽう)』なんです。

はっきり言えば、
人間は、
仏法を求め、仏法に向かって、
模索(もさく)し、
それを、つかもうとしているんです。


ところが、『仏法(ぶっぽう)』と聞くと、
そっぽを向く。


まさか・・仏法が、
自分が求めているものだとは、
考えもつかないからです。


だから、人々は、必死で仏法を求め、
仏法を、つかもうとしているのに、
自分がつかもうとして模索(もさく)している幸せが、
まさか、仏法にあるとは、
考えられず、
結局、自分が欲(ほ)しがっている幸せを、
つかめず、
人生を終わってしまう。


それが、多くの人たちの、
人生だと言うことも、できます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

だから、その『仏法』に対する
偏見(へんけん)を打ち破(やぶ)り、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を求め、
実践(じっせん)していったとき、
自分のあらゆる悩みや問題が、
解決でき、
さまざまや希望や夢も、
かなえていけるようになっていく。

そして最終的に、
これ以上ない!と言える
幸せと勝利の、
最高に満足のいく人生を、
おくることができる!!


それが、すべての人が求めている、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
『仏法』です。


だから、ほんとうは、
すべての人が、
『仏法』を、求めている。

音楽にしろ、
映画にしろ、
文学にしろ、
さまざまな芸術にしろ文化にしても、
すべては『仏法』を目指(めざ)し、
仏法に近づこうと進んでいる。

人間のいとなみの、
すべては、
仏法に近づこう!仏法に近づこう!として
模索(もさく)している。


人間は、『仏法(ぶっぽう)』が、ほしいんです!!!

『仏法』を求(もと)めて求めて求め抜(ぬ)いているんです。


けれど、自分が求めている幸せが、
『仏法』であるとは、
まさか、気づかない・・・。


だから、自分が望む本当の幸せを、
つかめないまま、
人生を、終わってしまう。



だから、勇気を出してほしいと思う。



仏法は、そこにある・・!


過去の時代から、
あらゆる人が、求めて求めて、
欲(ほ)しがっていた最高の幸せは、
実は、創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
『仏法』の中に、
あるんです!


だから、この創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を、
つかんでほしい!!


なぜなら、
そこに、
すべての人が望む、
あなたが望む、
すべての幸せが、
あるからです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音171

世間のニュースなどを見ていると、
暗(くら)い話しが多い。

もちろん、明るい話題、
楽しい話題もあるけれど、
やはり、暗い出来事、ネガティプな情報が、
多いのも事実だと思う。

だから 、新聞なども、
一般紙は、
暗い話しが、多くなってくると思う。


ところが、聖教(せいきょう)新聞は、違う。

聖教新聞は、
創価学会(そうかがっかい)の機関紙だから、
創価学会の情報も多く出ているけれど、
大きな特徴(とくちょう)として、
紙面に、
「希望の言葉」、「励(はげ)ましの言葉、」
人生を前向きに挑戦していける、
「ポジティブな言葉」が、あふれている。


それは、見る人が見れば、よく!わかる・・!


ある少女がいた。・・

彼女は、創価学会員ではないけれど、
自分の家で、聖教新聞を、とることになった。

彼女は、その聖教新聞の記事を読み
聖教新聞が、大好きになった!

なぜかというと、
聖教新聞には、
「希望の言葉」、「勇気の言葉」が、
ちりばめられているからです!

そして、彼女は、
自分が好きな言葉が出てくると、
切り抜き、スクラップノートを作り、
大切にしてきた。

そのノートは、何冊(さつ)にも、なった・・!


そして、彼女は、大人になっていく。


彼女は独り立ちし、親元を離(はな)れていった。

彼女の親は、友人の勧(すす)めで、
聖教新聞をとることはあったけれど、
創価学会に対する理解は、
浅(あさ)く、あまりなかった。

だから、聖教新聞のスクラップノートを
大切にしている彼女を見て、
親は、彼女に、
「創価学会にだけは、はいるなよ!」
と言ったそうです・・・。


けれど、
世間の風潮(ふうちょう)が、
正しいとはかぎらない。

まして、世間の、
創価学会に対する、
いい加減(かげん)な記事や、
デマが、正しいわけがない。

それに、彼女は、
聖教新聞を、しっかり読んでいたので、
真実がわかっていた・・!


彼女には、確信があった。

なぜなら、聖教新聞を切り抜いた、
何冊ものスクラップノートは、
そのまま、
彼女のこころに、
希望と、勇気と、励ましとなって、
刻(きざ)まれていたからです。


そして、彼女は、創価学会に、入った!!


なぜなら、それは、
聖教新聞の希望の言葉の通り、
『幸せの道』であり、
『希望の道』であり、
『勝利の道』だからです。


そして、それは、
結局(けっきょく)、
家族や親も、
『幸せの道』『希望の道』
『勝利の道』に、導(みちび)くことになり、
親にも、
最高の幸せを、
もたらすことになっていきます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
暗い世の中の、
暗雲(あんうん)を吹(ふ)き払(はら)う、
太陽なんです。

南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の生命から、
無限のポジティプな心を引き出し、
開花していける!

そうなれば、当然、
悩みや苦難(くなん)を、
乗り越(こ)えることができ、
そのポジティプな生命から、
夢や希望も、
かなえていけるようになっていく。

こんな暗い様相(ようそう)の世の中だからこそ、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の太陽がもたらす光は、
無限に輝(かがや)いていく!!

どんなネガティブも、
追っ払(おっぱら)い、
清々(すがすが)しく、
無限の希望を持って、
進んでいける!!

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』と、
いうことなんです。


だから、聖教新聞は、明るい!!


希望が、あふれている!
勇気が、みなぎっている!
励ましの言葉に、満(み)ちている!


心というのは、不思議(ふしぎ)です。
希望があれば、どこまでも、
開花していける。
勇気があれば、
人生は、どこまでも開いていける!


その生命の息吹(いぶき)に満ちているのが、
聖教新聞であり、
希望と、勇気を、
無限に開いていく、
最強最大のポジティブ思考と言えるのが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音170

以前、
聖教(せいきょう)新聞の名字の言というコラムに、
こんな話しがのっていました。

それは、20代で関節リウマチを患(わずら)い、
寝たきりとなった女性の話しでした。

彼女は、心が荒(すさ)み、
周囲への不満が募(つの)っていった。

ある日、激励(げきれい)に訪(おとず)れた
創価学会の女子部の部長が、
枕元(まくらもと)で歌った。

ナポリ民謡(みんよう)
「オ・ソレ・ミオ(私の太陽よ)」。
それもイタリア語だった。

面食(めんく)らう彼女に、
部長が一言。


「どんなにつらいことがあっても、
生涯(しょうがい)、嵐が続くことはないのよ。」


涙があふれ、周囲に
感謝する心が生まれた。

その後、彼女は
自力で立てるようになり、
友のために祈り走る
広宣流布(こうせんるふ)の、
ヒロインに成長していった。


ちなみに広宣流布(こうせんるふ)とは、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
思想と哲学(てつがく)を基調(きちょう)として、
世界に平和と幸福を
もたらしていくことを言います。



創価学会(そうかがっかい)の強いところ、
素晴らしいところは、
こういうところにあるんだと思う。

ひとりの人間が、
ひとりの人間に、
一対一で対峙(たいじ)し、
徹(てっ)して励(はげ)ましていく。
そして、ひとりを蘇生(そせい)さて、
立ち上がらせていく。

それができる土壌(どじょう)と
哲学(てつがく)と生命のエネルギーが、
創価学会にはあるんだと思う。

無限の蘇生(そせい)のドラマを
生み出す場所が、
創価学会ではないかと思う。


とかく、孤立化(こりつか)しやすい
現代という世界。

華(はな)やかに見える人も
いるかもしれない。
幸せそうに見える人も
いるかもしれない。

けれど、精神の底にある
孤独(こどく)の闇(やみ)が、
どこかに潜(ひそ)んでいるのでは
ないだろうか・・・。

表面的には幸せそうに見えても、
心の底に闇(やみ)が隠(かく)れている。

その闇を押し隠して、
生きているような人も、
いるかもしれない。


その闇を、
打ち破(やぶ)る場所が、
創価学会だと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

欲(ほっ)しても欲しても、
満(み)たされない何か?がある。

どんなに楽しく、
幸せそうに振る舞(ふるま)っても、
心の底に満たされない何かがある。


人間が人間であることの証(あかし)・・・。
人間が人間であることの希望・・・。
人間が人間であることの尊厳(そんげん)・・・。


その、だれもが心の底で、
本当は欲している、
人間としての証(あかし)を、
つかむことのできる場所がある。

自分が人間であることの、
明確な希望と尊厳(そんげん)を、
心の底から感じ取ることのできる場所がある。


それが、創価学会だと思う。


自分が自分であることの希望。
自分が自分であることの尊厳(そんげん)。
自分が自分であることの証(あかし)。


それを、明確に、
心の底から歓喜(かんき)して、
感じ、味わい、
楽しんでいける場所が、
『創価学会』であり、
それを可能にする、
哲学であり力(ちから)であり、
エネルギーが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
心から思う・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音169

創価学会(そうかがっかい)の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰を
やってみるきっかけは、いろいろ、あると思うけれど、
何かの悩みや問題があって、
その解決(かいけつ)のために
創価学会の信仰をやりだした場合が、
多いかもしれない。

そして、その悩みや問題が、
ことごとく解決していくから、
創価学会は広がり、
世界192カ国にまで、発展(はってん)している。

それは、現実に、
創価学会の、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる仏法の信仰に、
悩みや問題を解決していく、
大きな大きな力(ちから)と
無限の可能性があるからだけれども、
別の観点(かんてん)から、
悩みや問題が解決できる理由を
考えることもできる。


それは、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰が、
間違いのない、
人々を幸せにできる、
本当に正しい、正義(せいぎ)とプラスの
信仰だと言うことですが、
それとは逆(ぎゃく)に、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)にしても、
神社信仰にしても、観光宗教にしても、
日本にはびこっている、それらの宗教が、
あきらかに間違(まちが)った、
でたらめな宗教であり、
人々を不幸にする宗教だということです。

それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教が、間違った宗教であることは、
ちょっと考えれば、わかりますし、
仏法哲学(ぶっぽうてつがく)をひもとけば、
完全に間違った宗教であることが、
わかります。

間違った宗教に祈るということは、
その間違った、でたらめな宗教に、
自分の生命と人生を、ゆだね、
ささげていくことになります。
間違ったでたらめな宗教に、
自分の生命と人生を、
ゆだね、ささげていけば、
当然(とうぜん)、
自分の生命と人生は、
間違った、デタラメなものになっていく。

自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったなら、
その当(あ)たり前の結果として、
さまざまな不幸が、
もたらされてしまいます。


それが、葬式仏教や神社信仰、
観光宗教などの間違った宗教です。


だから、そのような宗教にかかわってきたということは、
当然、その間違った宗教の
悪影響(あくえいきょう)と害毒(がいどく)を、
自分の人生に受けていくことになります。

だから、先祖代々、受け継(つ)がれている宗教が、
さっきも言ったように、
間違った、人を不幸にする宗教である場合、
その悪い影響、弊害(へいがい)を、
自分の人生と生命に
受けてしまうということが、できます。

また、自分が過去世(かこせ/過去に生きていた時代)に
かかわった宗教が、
間違った悪(あ)しき宗教であったがゆえに、
その間違った影響、
さまざまな不幸を背負(せお)って、
自分が生まれてしまったと、
考えることもできます。


人は、悩みの根本原因までは、
考えがおよびませんが、
さまざまな悩みや苦しみ、不幸は、
間違った宗教から起ってくると、
断言(だんげん)することができます。

ところが、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の
信仰につくということは、
逆に、その、自分が今までかかわってきた
間違った宗教を捨てて、
断(た)ち切ることを意味しています。

不幸の根源(こんげん)には、
その間違った宗教があるわけですから、
悩みや苦しみ、
不幸の根本的な原因は、
その間違った宗教にあるわけです。

そして、その、間違った宗教を捨てるということは、
その不幸や悩みの根本原因を、
捨てることになります。

不幸の根本の原因を捨てたんだから、
それは、結果として、
不幸や悩みを
消(け)し去(さ)ることになります。

原因がなくなれば、
それは結局(けっきょく)、
悩みや問題を、
解決することになっていきます。


そう考えると、
この創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰をやっていったとき、
ことごとく悩みや問題を解決していけ、
それがかりに、大変な悩みや問題であっても、
創価学会の信仰を、
真剣にやっていくことによって、
解決していけるのも、
納得(なっとく)いくかもしれません。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

問題は、
宗教には、正邪(せいじゃ)がある!
ということです。

間違った宗教をやっていけば、
不幸になるし、
正しき宗教をやっていけば、
幸せになります。

その間違った、
人を不幸にしてしまう宗教が、
日本にはびこっている
葬式仏教や神社信仰、観光宗教などです。


人は、正月などになると、
初詣(はつもうで)だと言って、
さまざまな神社や仏閣(ぶっかく)に行きますが、
実際は、いいことなどありません。

不幸になる原因を、
つくりに行っているにすぎません・・。

そして、それは、
自分の生命と人生に、
積(つ)み重(かさ)なり、
時と共に、
その人を苦しめることになるでしょう・・。


人は、このことに、
早く!気づくべきでしょう。


そして・・、
それとは逆(ぎゃく)に、
どんな不幸も、悩みも打ち破(やぶ)り、
夢や希望をかなえて、
太陽のような幸せを勝ち取っていける、
唯一(ゆいいつ)、真実に正しい宗教と言えるのが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

当分、お休みします。

このブログは、
当分、お休みします。

再開は未定ですが、
また、再開できたら、
幸せだと、思っています。


いままで、
読んでくださった皆さま、
どうも、ありがとうございました!


お元気で!
がんばってください!!
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こころの音168

20世紀の喜劇王である、
チャーリー・チャップリンの自伝を、
読んでいたら、
チャップリンの母の話しが、
出てきました。

チャップリンの母は、
若いころは、
小さな劇団の舞台女優として、
まあ、それなりに活躍(かつやく)もして、
女優である間は、
生活も、それなりに裕福(ゆうふく)だったようです。

けれど、病気によって、
声が出なくなり、
舞台を去(さ)らなくてはならなくなってからは、
夫(チャップリンの父)も亡(な)くなり、
なんとか、内職の針仕事で、
食をつなぐ、
それこそ、貧窮(ひんきゅう)のかぎりを、
つくしたそうです。

それでも、母は、
チャップリンが、遊びから帰ってくると、
いつも、大喜びで、
フライ・パンを肉のたれ汁に、
ひたしたものとか、
祖父から、もらった卵に紅茶だとか、
なにかを、つくってくれた。

そして、そのあと、
本を読んでくれたり、
一緒に窓ぎわに座って、
道行く人の批評(ひひょう)をしたりして、
チャップリンを喜ばせてくれた。
つまり、眺(なが)めながら、
いろんな話しを創作してくれた。

たとえば、元気そうな青年が、
浮(う)き浮きした足取りで、やってくると、
「ごらん、ホッパンスコッチさんが、やってくるよ!
 なにか、賭(か)け事を、しにゆくところなのよ。
 ね!もし、うまくいったらね、
 自分と好きな女の子に、きっと、
 古物の二人乗り自転車を買うつものなのよ!」

次は、なにやら、ふさぎこんだ男が、
とぼとぼと、やってくる。
「ははあ、あの人、家に帰ると、
 大嫌(だいきら)いなシチューとパースニップの
 夕食が、待ってるんだわ。」

また、肩で風でも切るような歩きつきの男が通ると、
「おやおや、カッコいい若者だけど、
 実はあの男、きっとズポンの、お尻(しり)の穴を、
 気にしているのよ!」

次は、ひどく、せかせかした足取りの男がくる。
「あの人ね、たった今、
 滋養強壮剤を飲んだばかりのところよ、きっと!」

といった調子で、まず、
いつ果(は)てるともなく、つづき、
子供のチャップリンは、
腹の皮(かわ)を、よじらせて笑ったそうです。

そんなチャップリンの母も、
あまりの貧困(ひんこん)による、
極度の栄養失調と、生活苦により、
とうとう、気が狂(くる)ってしまった。

いつも、子供のチャップリンは、
家に帰ると、
母が買ってきてくれる、お菓子の紙袋の中を、
もどかしげに、のぞきこむ癖(くせ)があった。

そして、母が気が狂ってしまった、
その日も、
家には、ちゃんと、紙袋の中に、
わずかばかりだが、
キャンディが、とってあったそうです・・・。


母親という生き物は、
なんて、偉大(いだい)な生き物なんだろう!!!
と、思ってしまいました。
現代では、そうでない母親も、
いるようだけれど、
基本的に、やはり、
母親という生き物は、
本当に、偉大で、尊(とうと)い存在だと思う。


創価学会(そうかがっかい)の二代会長である、
戸田城聖先生が、

「母が皆(みな)、
 幸せになった時に、
 本当の平和な世界となる」

と生命を震(ふる)わせて、叫(さけ)ばれた。

そして、
創価学会インターナショナル会長である、
池田先生も、言っている。

「すべての女性と子供たちが、
 笑いさざめく時代に!
 
 それが、われらの大目的だ!!」

と。

創価学会は、『母』を、大切にする。
なかんずく、婦人を、大切にする。
もっと言えば、女性を、大切にする。

なぜならば、
創価学会を、支(ささ)えているのは、
名もない『母』たちであり、
婦人だからです。

それは、まぎれもない事実です。
そして、その創価学会の母たちを、
ことごとく、幸せにしてきたのも、
創価学会です。

逆に言えば、
創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)には、
もっとも、根幹的(こんかんてき)な『母』たちを、
どんなことがあったとしても、
本当に、確実に、
幸せにしていける哲学(てつがく)と、法則(ほうそく)があり、
現実の人生を、幸せに変えていける、
真実の力(ちから)がある!!
ということだと、思う。

母たちを、幸せにした分だけ、
世界の平和は、広がる。
それが、創価学会が目指す、
平和だと、思う。

もっとも確実で、もっとも身近な平和、
それが、母たちを、
幸せにしていくことだと思う。


それが、創価学会が、
やってきたことです。


『環境(かんきょう)の母』と言われ、
ノーベル平和賞を受賞した、
マータイ博士が、
「グラフSGI」という、
創価学会の写真雑誌のページを、
めくりながら、
創価学会の女性たちが写っている写真を、
指差(ゆびさ)しながら、言っています。

「見て!
 この笑顔!
 世界中のどこに行っても、
 創価の人たちが、一番、
 幸せそうね!
 ほんとうに、びっくりするほどです!!

 どうしたら、
 こんなに素晴らしい笑顔になるのですか?」

と・・・。


「どうしたら、
 こんなに素晴らしい笑顔になるのですか?」


その答えは、
当然、
『ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、となえる!』
仏法の信仰であり、
その南無妙法蓮華経の仏法を、
誠実に、正確に実践(じっせん)している、
創価学会の活動です。


すべての母たち、婦人たちを、
世界で、いちばん、最高の笑顔にする方法!

それが、創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

最後に、
池田先生が、作詞した『母』という曲の、
詩を、紹介して、終わりたいと思います。


 母よ あなたは
 なんと不思議(ふしぎ)な 豊かな力を
 もっているのか
 もしも この世に
 あなたがいなければ
 還(かえ)るべき大地を失い
 かれらは永遠に さすらう

 母よ わが母
 風雪に耐(た)え 悲しみの祈りを
 繰(く)り返した 母よ
 あなたの願いが翼(つばさ)となって
 おおぞらに舞(ま)いくる日まで
 達者にと祈る

 母よ あなたの
 思想と、かしこさで 春を願う
 地球の上に
 平安(へいあん)のしらべを 奏(かな)でてほしい
 その時 あなたは
 人間世紀の母として 生きる


・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感